「ナラティブ(物語)の集合体」としての語り。
2011年 02月 26日
現在、僕が文化人類学の学生研究者として、2008年までフィリピンで収集した、多くの方々の証言を記述し、それぞれの関係を検討しています。
この作業の中で、僕が規則としているのは、「証言の客観的な事実性を求めない」というものでした。つまり語っている内容が事実であれそうでないのであれ、真偽を問うことには価値をおかず、証言者達が一体どのような必然性や理由でそのような証言を僕に語ったのかについて知ろうとしています。
こうした、集めた証言に対する立ち位置について、村上春樹氏が「ナラティブ(物語)の集合体」という言葉を使って、同じような指摘をしていることを知りました。
村上氏はこのように語っています。”…僕はあの本(『アンダーグラウンド』)を、「ノンフィクション」だとは考えていません。もちろんフィクションではない。しかしノンフィクションでもありません。僕としてはそれをむしろ「物語(ナラティブ)の集合体として考えています。僕がインタビューした人々は、事件の被害者たちは、みんなそれぞれに語るべき個人の物語(ナラティブ)を持っていました。彼らはたしかにそこで事実を語りました。でもそれは百パーセントの事実ではありません。それらの事実は彼らの経験を通して目にされた光景です。これはひとつのナラティブです。…ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めたかったのはそういうものなのです。…彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もし彼らがそれを事実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。…ナラティブのうちのあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォメーションを総合したものが、その相対が、ひとつの広い意味での真実を形成するからです。”[村上 2010:340-341]
この作業の中で、僕が規則としているのは、「証言の客観的な事実性を求めない」というものでした。つまり語っている内容が事実であれそうでないのであれ、真偽を問うことには価値をおかず、証言者達が一体どのような必然性や理由でそのような証言を僕に語ったのかについて知ろうとしています。
こうした、集めた証言に対する立ち位置について、村上春樹氏が「ナラティブ(物語)の集合体」という言葉を使って、同じような指摘をしていることを知りました。
村上氏はこのように語っています。”…僕はあの本(『アンダーグラウンド』)を、「ノンフィクション」だとは考えていません。もちろんフィクションではない。しかしノンフィクションでもありません。僕としてはそれをむしろ「物語(ナラティブ)の集合体として考えています。僕がインタビューした人々は、事件の被害者たちは、みんなそれぞれに語るべき個人の物語(ナラティブ)を持っていました。彼らはたしかにそこで事実を語りました。でもそれは百パーセントの事実ではありません。それらの事実は彼らの経験を通して目にされた光景です。これはひとつのナラティブです。…ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めたかったのはそういうものなのです。…彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もし彼らがそれを事実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。…ナラティブのうちのあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォメーションを総合したものが、その相対が、ひとつの広い意味での真実を形成するからです。”[村上 2010:340-341]
by okphex
| 2011-02-26 20:35
| 本の言葉