写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


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脱商品化の時代―アメリカン・パワーの衰退と来るべき世界

イマニュエル ウォーラーステイン / 藤原書店


「世界システム論」で社会科学、政治経済学など多方面に大きな影響を与えたウォーラーステインの近著は、資本主義経済の限界とその崩壊の経過を、史的観点から明らかにする事でした。

近年の大規模な環境破壊や相次ぐ景気後退により、近年金融と市場に支えられた資本主義経済は混乱しているように見えます。
しかしウォーラーステインは、こうした変動は、500年に及ぶ資本主義社会の展開が内包していた問題がついに限界を超えたために生じたものであって、必然の帰結であったと指摘します。
資本主義を基調とした社会はこれまで一貫して、発展に伴う利潤の増大と効率化をもたらすというバラ色の未来像を提示し、その実現に向けた期待を発展の推進力としていました。しかしながら実際のところは、資本主義経済が精緻化すればするほど、人々の生活が経済的に豊かに見えるようになればなるほど、賃金上昇の圧力は高まり、それが生活にかかるコストを押し上げ続けてきました。このようにして、資本主義社会における経済的効率性は不可避的に低下してきたというのです。こうした構造的矛盾は、これまでは「フロンティア」を開発することで先延ばしにされてきました。例えば農村の都市化、先進国による発展途上国の開発などです。その主要な目的は、新たな産業の創出と、低人件費の労働力の確保でした。こうして各国は、増大し続けるコスト上昇と利潤の拡大の折り合いをつけようとしてきたのです。
しかし、こうした開発モデルは、フロンティアがあってこそ成り立つもので、当然のことながらその進行には限界があります。その限界地点こそが、現在であるとウォーラーステインは指摘します。

では、史的に必然の歩みを続けているように見える人類に、どのような未来があるのでしょうか?
そのキーワードとしてウォーラーステインが提示しているのが、表題ともなっている「脱商品化」です。
すなわち、人間社会を維持するのに必要な基礎的要素を利潤の構造から解き放とうと提言します。
実際のところ、「脱商品化」という概念は、ウォーラーステインを含めた様々な研究者によって、主に福祉国家論の分野で盛んに議論されているようです。
これは一種の原始共産主義のようにも思える発想です。実際のところ、ウォーラーステインが期待を寄せるのは、これまでのユートピア的な革命思想から脱して、より現実的なビジョンと実行力を伴った「左翼」勢力です。
ただこの「左翼」という存在は、本書の後半になって突如登場するため、一体これがどのような勢力なのかが今一つはっきりしません。ウォーラーステインは自らを「左翼」側に立つ者と明確に規定しているようですが。

来るべき資本主義社会の崩壊後にどのような未来が待っているのか、という論考以上に、これまでどのような経過で資本主義社会が崩壊の道を辿ってきたのか、という分析の鋭さ、文体表現の巧みさに驚かされます。「野党、革命を志向する左翼勢力といった反システム運動の多くは、現体制の抜本的改革に対する期待を原動力として政権奪取の目的を達する。その途端に反システム運動は現実の構造変革の困難さに直面し、前政権の縮小再生産的な政権に変化してしまうため、支持層の深い失望を招く」といった指摘は、まるで現在の日本の政治状況を見透かしているかのようですね。
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by okphex | 2010-09-23 06:06 | 書籍

『文化移民』

藤田結子著の『文化移民』を読みました。
マルチサイテッド・エスノグラフィーと呼ばれる、複数の地域をまたいだ社会調査の手法を用いつつ、日本の若者達の他地域への移住と帰還の道のりを辿ります。
本書に登場する数十人の若者達は、音楽やアートといった、流行文化や大衆文化の中心地への憧れと新天地での生活を夢見て、ニューヨークやロンドンに旅立ちます。
しかし当然のことながら、現地での生活は彼らが思い描いたものとは大きく異なり、生活習慣の違いや民族的人種的な障壁の問題に直面します。
こうした状況において、彼らの内面では、「故郷(ホーム)」としての日本への想いがこれまで以上に大きく意識されるようになったといいます。そして彼らの多くは再び日本に回帰していきます。
「移民」は、経済、政治、文化のあらゆる領域に大きな影響を及ぼしている、人々の移動現象です。その動因については、グローバリズムの議論と関連づけられて、多くの研究や理論構築がなされてきました。
しかし、本書に登場する若者達の行動や声を拾い上げていくと、そこには合理的で精緻な社会科学の理論で描かれる数字としての人間とは異なった、生々しい人間像が浮かび上がってきます。彼らは特定の集団を形成したり、巨大な動きを意図的に形成することなしに、世界を取り巻く「エスノスケープ(人々・民族の移動状況)」の当事者となっています。移民自体は19世紀後半から大きな増加を見せていますが、現在の移民状況が大きく異なるのは、異文化に対する憧れといった想像力と、その想像力を喚起する各種メディアの影響力が、経済的動機(出稼ぎなど)以上に人々の行動を促す大きな要因となっている点だと言います。
国境を往来して生活する人々は、一種のノマド(遊牧民)やコスモポリタン的な存在であるかのように映りますが、本書の若者の語りからは、地縁と結びついた帰属意識は、簡単には他の自己認識に置き換わることはなく、却って異文化での生活経験が、故郷への帰属意識をより活性化させうることが示されます。
ただ、海外に移住した人々が皆故郷日本に回帰している訳ではなく、新たな生活を築きつつある状況にも意識を向ける必要がありそうです。例えば、バリでは現地で結婚して生活する日本人の女性が増加しているそうですが、こうした事例を比較してみることで、日本における「移民」の状況がより一層浮き彫りになるのではないでしょうか。
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by okphex | 2008-11-08 23:58 | 書籍

『勉学術』

勉学術
白取 春彦 / / ディスカヴァー・トゥエンティワン
ISBN : 4887595204
スコア選択: ※※※※

宗教や哲学に関する著作で知られる白取氏による、勉強法に関する文献です。
「独学」の方法に焦点を当て、本の読み方から外国語の学習まで網羅しています。
論述の明快さを特徴とする著者だけに、どの記述も大変分かり易いものです。

例えば外国語の習得には、構文の書き取りと多読が重視としています。
初歩の学習と思える日常会話は、むしろ高度な語学力を必要とするのだそうです。そこで、発音の流暢さは脇に置き、まず読解力向上を優先すべきだというのです。

また読書については、まず全体をざっと読むことを薦めています。
そして積極的に傍線を引いていき、書き込みはキーワード程度にすべきとします。
そのため、本は図書館で借りるのではなく、購入を推奨しています。

このように本書は、勉学の心構えと実際的な勉強法の両方を紹介しています。

他にも勉強法の著作は多数出版されていますが、多くは技術論に傾いています。
あるいは、心構えといった精神論に比重を置いている場合もあります。
本書はその両方の側面を取り入れて、なおかつ比較的短い頁数に抑えています。
筆者の見識の深さと文章力の妙ですね。

ただし読み進めていくと、いささか強引な断定も散見されます。
しかし、これもまた「読むべき要点」を抽出する良い訓練となるように思えます。

本書の学び方が有効なのは、小学生の基礎学習や趣味の勉強では無さそうですね。
大学院生の研究や仕事上の実際的な能力開発に向いているのではと思います。
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by okphex | 2008-11-07 23:58 | 書籍

革命と暴力。

『メルロ=ポンティ コレクション』「プロレタリアから人民委員へ」より
米大統領選は、事前予想通りオバマ候補の圧倒的勝利となりました。
今後は新大統領として課題山積のアメリカの舵取りに焦点が移ります。
経済問題と同様に世界に大きな影響を与えるのは、軍事的戦略でしょう。
ブッシュ政権の、軍事力を背景とした一国主義的戦略は転換するのでしょうか?
その決断は新大統領如何ですね。

こうした状況に絡んで、本日読んだ本の内容を少し紹介します。
メルロ=ポンティの「プロレタリアから人民委員へ」は政治に関する論考です。
マルクス主義がどのように革命を推進していったのかを解き明かそうとします。
論考の柱となるのは、「暴力」です。
革命時に生ずた直接的な力の行使を正当化する論理と言ってもいいと思います。
ここはロシア革命を主導したレーニン、トロツキーの発言が参考になるでしょう。
彼らはカントの「善意志」といった普遍的道徳を行動規範とはしていません
[p.201]。
闘いの過程では欺きや術策を含めたあらゆる手段を執る必要があると主張します。
そして革命の際に行使される暴力は他の暴力に優越し、正当化されるとします。

こうした観念は近代の合理主義的な観念なのでしょうか。
メルロ=ポンティはマルクス主義における暴力と革命の関係を考察します。
ここで重要となるのは、「魂の無垢」という観念だといいます。
この観念は純粋に宗教的思考の産物のように思えます。
しかしマルクス主義の思想にこの観念は深い影響を与えているといいます。
純粋な意識があるとすれば、そこに身体的な力を及ぼすことは不可能です。
しかし現実の人間世界においては、純粋な魂は手の届かない存在だと規定します。
そのため、暴力は現実の体制に共通した特徴であると考えることを可能とします。
[p.208]
ここにおいて、純粋さと暴力とどちらを選ぶのかという選択肢はあり得ません。
革命という目的達成のために、どの暴力を優先すべきであるかが問われるのです。

暴力が正当化される世界は、誰しも望むところではないでしょう。
しかし、現実には様々な思考様式や観念が、暴力を肯定するように働いています。
過去の帝国主義然り、近年のアメリカの一国主義的軍事行動然りです。

こうした枠組みや観念が、今後「変化」していく可能性はあるのでしょうか?
オバマ「新大統領」には、世界に新たな枠組みを提示する以前に課題が山積です。
即座に大きな変化を期待することはできないかも知れません。
しかし、希望を持ち続ける価値はあるかも…。
オバマ候補の勝利演説には、こうした期待を抱かせる力強さがありました。基づいたものではなさそうです。
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by okphex | 2008-11-05 23:50 | 書籍

「絡み合い-キアスム」

引き続き、メルロ=ポンティ コレクションから。
「身体について」の部の後半となる、「絡み合い-キアスム」の章で、世界の成り立ちと身体との関係について焦点が当てられます。
ここでも「肉」が、重要な鍵として度々登場します。彼は「肉」と言う概念を、原素(エレメント)として捉えるべきであり、具体的な質量や実体を伴った存在として捉える事は適切ではない、と指摘します[p.133]。

もう一つこの章で重要となる考え方は、身体を二つの側面から捉えるということです。つまり一方には「見られるもの」「感じられるもの」としての身体があり、他方には「見るもの」「感じるもの」としての身体があるということです。彼は両者を、前者は第三者が対象として捉える身体なので「客観的身体」、後者を、身体そのものが主体となることから「主観的身体」と呼びます[p.127]。

この二つの身体の側面が、不可分の関係にあることは、現実の経験としてすぐに理解できます。片方の手がもう一方の手に触れた時、触れた側の手は「感じる身体」であり、同時に触れられた側の手は「感じられる身体」となり、さらに感覚を相互に実感できることから、両者の関係は逆転して捉える事も可能です。さらにこの二つの側面を、当事者の人は、我が身の感覚として実感できるのです。

では、この二つの側面は同時に感覚として出現するものなのでしょうか。彼はそこには必ず「ずれ」が見出せるはずだ、と考えます。この「ずれ」はほとんど無きに等しいが、非在ではなく、そのために二つの身体はまるで一つの存在のように密着している、としています[p.149-150]。

残念ながら、筆者の理解では、こうした身体の成り立ちが世界全体の存在とどのように結びついていくのかが十分に理解できませんでした。ただ、我々にとって身体は事物の尺度なのであり、何らかの観念を想起する際に、我々は「肉」の奥行きがその理解に介入することを認める必要がある、とする指摘が、身体と世界を結び付ける手がかりとなるかも知れません[p.156]。世界を理解する際に、私たちは身体の外側から眺めることはできず、常に内側に留まる。そのため身体と世界は「肉」の厚みを挟みつつ繋がっている、とする理解では的外れでしょうか?今後の考察の課題です…。
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by okphex | 2008-11-03 23:45 | 書籍

「問い掛けと直観」

先日ご紹介した、
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)の内容から。

今まで西洋哲学などほとんど縁がなかったので、用語や言い回しの理解に難渋していますが、少しずつ読み進めています。
今回読んだのは、「身体について」の部の、「問い掛けと直観」の章からです。
メルロ=ポンティは身体の両義性について深く洞察した哲学者と言うことで、「身体」を表題としたこの部では、彼の思想の核心部分の一端に触れることができるのではないか、と期待していました。

ところがこの章では、「身体」に関する議論よりも、「本質」とは何か、「哲学的な問い」とは何か、といった問題を主に扱っていました。
ただ、「身体」を想起させる彼ならではの用語として、「肉」という言葉が随所に登場します。これは精神的なもの、形而上学的な理念と対置される、物質や具体的な何かを指し示しているのではなく、我々が見ることができ、触れる事ができる総てのものを覆う「厚み」を表現したものだとしています[p.103]。

この概念に関連していると思われる面白い例を、彼は後の章で示しています。それはものを触ろうとする左手を、右手で触った時の経験です[p.122]。左手は何か別の物に触れようと意図し、その感触を予感、あるいは期待しているときに、ふいに右手が左手に触れた時に、「触ろうとする感覚」と、「触れられた感覚」が一人の人の中に生じるでしょう。それでは果たしてこの感覚は、同時に生じるものなのでしょうか?それとも何らかの差があるのでしょうか?こうした経験の差を、「肉」という厚みとして捉えているのではないか、と思います。

そしてこうした疑問を受けて、「ではその背後にあるものは果たして何なのか?」という新たな問いが生じるかも知れません。言い換えると、「手で触れる事ができる事物の背後に隠れている本質は存在するのか?」という問いとも言えます。哲学に疎い僕などは、こうした議論が「哲学的な議論」の典型だと思っていました。しかし彼によると、一見「本質」の探求に向かうように見えるこの問い掛けは、何らかの具体的な「本質」が存在することを暗黙の了解としている点で問題があると指摘します。むしろ、「私は何を知っているか」という問い掛けこそ、最終的に「"ある"というのはどういう事なのか」という問い掛けに繋がる、重要な哲学的問いではないか、と説きます[p.112-113]。そしてその問いは、現実世界とは全く遊離した問題としてではなく、むしろ非常に日常的な疑問、例えば「私は今どこにいて、今何時なのか」という形としても現れるとしています[p.99]。この問いは、日常的な経験と事実を反映しつつ、世界そのものへと向かう尽きざる問いでもあるというのです。

「私は何を知っているか」を問い掛けの中心に据えること、この指摘は僕にとっても非常に心に響きました。前述のように、高度に形而上学的な議論に終始することが哲学の議論の有り様だと思っていた僕にとって、経験や時間、そして本質とが互いに交差する形で問い掛けを展開できると理解したことで、新たな思考の地平が拓けたように思います。とはいえ、まだまだ読み始めたばかりで、誤読や未消化な部分がほとんどを占めていることは十分知っています。しかし初学者が自らの未熟を隠匿していては、何らの歩みも望めないと自ら言い聞かせ、今後も逐次、自らの思索を「反省」していこうと思っています。
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by okphex | 2008-11-02 23:49 | 書籍

文化としての身体

メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
モーリス メルロ=ポンティ / / 筑摩書房
ISBN : 4480084681
スコア選択: ※※※※
メルロ=ポンティは現代フランスを代表する思想家です。恥ずかしながらこれまで彼の著作を直接読んだことがなかったのですが、「身体」「知覚」についての近代思想に対する関心から何冊か購入してみました。
まだ読み始めたばかりで、評を掛けるほどの知見を得てはいませんが、「心と身体」、「自然と人為」といったデカルト以来の二元論的思想をどのように批判的に乗り越えようとするのかを学ぶことは、僕自身のまさに「肉」となりそうな予感を抱いています。
とりあえず、一冊読み通してみます…。
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by okphex | 2008-10-31 23:56 | 書籍

『オリエンタルズ』

オリエンタルズ―大衆文化のなかのアジア系アメリカ人
ロバート G.リー / / 岩波書店
ISBN : 4000223909
スコア選択: ※※※※

アメリカにおいて、中国人や日本人、フィリピン人など「アジア人」が主流社会からどのようなまなざしを向けられ、扱われてきたのかを、様々な大衆文化から分析しています。
風変わりな外国人から、やがて危険な侵入者として見なされ、一転ある時期には模範的な市民としてなど、「アジア人」というラベルは時代に応じてその役割をめまぐるしく変化させます。
しかし一貫しているのは、常に白人主流社会という、「我々」とは異なった「彼ら」という他者に分類されてきたこと。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のチャイニーズ・マフィアは、アメリカ社会に深く静かに浸透する華僑社会を描き出し、他方「ブレード・ランナー」は渾然一体となり、国籍すらも喪失したアジアの「浸潤」を、ずぶ濡れのロサンゼルスに染み入る雑多な音声は示します。
歌、物語、映画、と時代毎に媒体は異なっても、大衆文化はその俗っぽさ故に、一片の真実を映し出します。
近年の映画はともかく19世紀の歌や風刺画といった貴重な資料を駆使した分析は見事です。
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by okphex | 2008-10-12 20:16 | 書籍

『会社は誰のために』

会社は誰のために
御手洗 冨士夫 / / 文藝春秋
ISBN : 4163683208
スコア選択: ※※※




本日は、広島から松山まで、日帰りの出張でした。しかも夜には西条で別の用件があったため、全ての行程を車で移動しました。
個人的なドライブならしまなみ海道の縦断も楽しいのでしょうが、仕事だと辛いだけですね。ふー。

そしてちょっとした待ち時間を利用して、『会社は誰のために』(御手洗 冨士夫, 丹羽 宇一郎 著 文藝春秋)を読みました。
キヤノンと伊藤忠商事という、日本有数の企業のトップ経験者が、「会社とは何か、何のために存在するのか?」について短いが直接的な文章で纏めています。
どの節の表題も、そのまま企業の社長室などに飾られていそうな言葉ばかりです。
そして本文で述べられている主張も、反論の余地がないほどの正論で、彼らのような経営者ばかりであれば、日本の未来はさぞかしバラ色であろうと思わせます。

しかし、とりわけキヤノンの昨今の不祥事を知るにつけ、経営者の清談は別の意味で心して読む必要がありそうです。世界的な金融危機と、日経平均株価の急落に見舞われている現在、この本を読む機会に恵まれたのはある種の運命の皮肉でしょうか…。
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by okphex | 2008-10-10 23:57 | 書籍
ボディ・サイレント―病いと障害の人類学 (SS海外ノンフィクション)
ロバート・F. マーフィー / / 新宿書房
ISBN : 4880082430
スコア選択: ※※※※※

病を扱った文化人類学の本としては、既に刊行されてかなりの時間が経っていますが(日本語版の刊行は1992年)、病と人間、身体、そして生きる意味を考える上で、深い示唆を与え続ける書物です。

筆者のマーフィーは、高名な文化人瑠学者としてブラジルのムンドゥルク族に関する見事な民族誌を数々発表し、長年コロンビア大学の教授として、同校のみならず、アメリカ人類学を牽引し続けてきました。彼が身体の異常に気が付いたのは1972年、頸椎を圧迫する腫瘍のために、不規則な痙攣が生じたことがきっかけです。

それ以降、彼の身体は徐々に脳の統御を失って、やがて全身麻痺に至ります。彼の人類学者として訓練された観察力と、高い知性は、自らの身体が統御を失っていく様を、ゴフマンやレヴィ=ストロースなど、高名な社会学者、人類学者の分析を援用しつつ、抑制の効いた筆致で描いていきます。

彼が不可逆的な身体の麻痺という予測も付かない事態に陥っても、決して生きることに絶望することも、諦観することもなかったことは、自らの身体を観察し続けて、そこに人間の生きる意味を探ろうと極限まで思考し続ける姿から窺えます。

逆に自らが健康体であると信じて疑わない人々が彼の姿を見て、「僕なら自ら命を絶つね」と漏らした時、こうした態度こそは、身体障害者に対する差別どころではなく、人間の生そのものに対する否定である、と彼が長い記述の旅の最後に結論づけた時、死も、意志と身体の同調を信じて疑わず、従って生の肯定の感覚すら失ってしまった人間こそ、まさしく僕自身であると気付き、愕然とさせられました。

著者が述べているとおり、この本は「身体障害」を扱った文化人類学の専門書などではなく、「愛」の普遍性を追求した本であると言うことができます。
多少人類学的な用語が並んだり、ゴフマンやレヴィ=ストロースの議論を踏まえた論述が見受けられるなど、これらの学問分野に馴染みのない読者にはやや取りかかりにくい部分もあります。しかし彼の格調高く、詩的とも呼べるような文章が紡ぎ出す深い洞察は、少々難解な議論に当たっても、さらに読み進めるだけの力強さを持っています。
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by okphex | 2008-10-07 23:37 | 書籍