写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


by okphex
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内田樹先生は、学問と「礼」の関係について、以下のようなことを述べています。
現代社会におけるコミュニケーションの分断状況についても考えさせられる、重要な指摘だと思います。
”中国では、六芸、つまり「礼楽写御書数」を君子が学ぶべき学問としていた。
「礼」とは葬礼の作法のことである。
そして葬礼とは、「究極の他者」である死者があたかもそこに存在しているかのように振る舞う儀式である。
このように、死者を「祀る」という概念を持っているのは人間だけである。
しかし、日本の教育が「礼」をカリキュラムに取り入れなくなって久しく、また葬礼も簡略化する傾向が顕著である。
果たしてこうした動きは「合理的」な選択なのだろうか”
参照:[内田樹 2010 『武道的思考』 p.139]
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by okphex | 2011-01-07 18:29 | 日々の文章

福岡滞在中。

日中の仕事を終えて、現在福岡に滞在中です。明日の早朝マニラに移動します。フィリピンでは直接の影響はまだ見られませんが、豚インフルエンザの感染被害や、注意の呼掛けが行われていますね。帰国までに終息しているとよいのですが...
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by okphex | 2009-04-28 11:12 | News-そのほか

革命と暴力。

『メルロ=ポンティ コレクション』「プロレタリアから人民委員へ」より
米大統領選は、事前予想通りオバマ候補の圧倒的勝利となりました。
今後は新大統領として課題山積のアメリカの舵取りに焦点が移ります。
経済問題と同様に世界に大きな影響を与えるのは、軍事的戦略でしょう。
ブッシュ政権の、軍事力を背景とした一国主義的戦略は転換するのでしょうか?
その決断は新大統領如何ですね。

こうした状況に絡んで、本日読んだ本の内容を少し紹介します。
メルロ=ポンティの「プロレタリアから人民委員へ」は政治に関する論考です。
マルクス主義がどのように革命を推進していったのかを解き明かそうとします。
論考の柱となるのは、「暴力」です。
革命時に生ずた直接的な力の行使を正当化する論理と言ってもいいと思います。
ここはロシア革命を主導したレーニン、トロツキーの発言が参考になるでしょう。
彼らはカントの「善意志」といった普遍的道徳を行動規範とはしていません
[p.201]。
闘いの過程では欺きや術策を含めたあらゆる手段を執る必要があると主張します。
そして革命の際に行使される暴力は他の暴力に優越し、正当化されるとします。

こうした観念は近代の合理主義的な観念なのでしょうか。
メルロ=ポンティはマルクス主義における暴力と革命の関係を考察します。
ここで重要となるのは、「魂の無垢」という観念だといいます。
この観念は純粋に宗教的思考の産物のように思えます。
しかしマルクス主義の思想にこの観念は深い影響を与えているといいます。
純粋な意識があるとすれば、そこに身体的な力を及ぼすことは不可能です。
しかし現実の人間世界においては、純粋な魂は手の届かない存在だと規定します。
そのため、暴力は現実の体制に共通した特徴であると考えることを可能とします。
[p.208]
ここにおいて、純粋さと暴力とどちらを選ぶのかという選択肢はあり得ません。
革命という目的達成のために、どの暴力を優先すべきであるかが問われるのです。

暴力が正当化される世界は、誰しも望むところではないでしょう。
しかし、現実には様々な思考様式や観念が、暴力を肯定するように働いています。
過去の帝国主義然り、近年のアメリカの一国主義的軍事行動然りです。

こうした枠組みや観念が、今後「変化」していく可能性はあるのでしょうか?
オバマ「新大統領」には、世界に新たな枠組みを提示する以前に課題が山積です。
即座に大きな変化を期待することはできないかも知れません。
しかし、希望を持ち続ける価値はあるかも…。
オバマ候補の勝利演説には、こうした期待を抱かせる力強さがありました。基づいたものではなさそうです。
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by okphex | 2008-11-05 23:50 | 書籍

「絡み合い-キアスム」

引き続き、メルロ=ポンティ コレクションから。
「身体について」の部の後半となる、「絡み合い-キアスム」の章で、世界の成り立ちと身体との関係について焦点が当てられます。
ここでも「肉」が、重要な鍵として度々登場します。彼は「肉」と言う概念を、原素(エレメント)として捉えるべきであり、具体的な質量や実体を伴った存在として捉える事は適切ではない、と指摘します[p.133]。

もう一つこの章で重要となる考え方は、身体を二つの側面から捉えるということです。つまり一方には「見られるもの」「感じられるもの」としての身体があり、他方には「見るもの」「感じるもの」としての身体があるということです。彼は両者を、前者は第三者が対象として捉える身体なので「客観的身体」、後者を、身体そのものが主体となることから「主観的身体」と呼びます[p.127]。

この二つの身体の側面が、不可分の関係にあることは、現実の経験としてすぐに理解できます。片方の手がもう一方の手に触れた時、触れた側の手は「感じる身体」であり、同時に触れられた側の手は「感じられる身体」となり、さらに感覚を相互に実感できることから、両者の関係は逆転して捉える事も可能です。さらにこの二つの側面を、当事者の人は、我が身の感覚として実感できるのです。

では、この二つの側面は同時に感覚として出現するものなのでしょうか。彼はそこには必ず「ずれ」が見出せるはずだ、と考えます。この「ずれ」はほとんど無きに等しいが、非在ではなく、そのために二つの身体はまるで一つの存在のように密着している、としています[p.149-150]。

残念ながら、筆者の理解では、こうした身体の成り立ちが世界全体の存在とどのように結びついていくのかが十分に理解できませんでした。ただ、我々にとって身体は事物の尺度なのであり、何らかの観念を想起する際に、我々は「肉」の奥行きがその理解に介入することを認める必要がある、とする指摘が、身体と世界を結び付ける手がかりとなるかも知れません[p.156]。世界を理解する際に、私たちは身体の外側から眺めることはできず、常に内側に留まる。そのため身体と世界は「肉」の厚みを挟みつつ繋がっている、とする理解では的外れでしょうか?今後の考察の課題です…。
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by okphex | 2008-11-03 23:45 | 書籍

「問い掛けと直観」

先日ご紹介した、
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)の内容から。

今まで西洋哲学などほとんど縁がなかったので、用語や言い回しの理解に難渋していますが、少しずつ読み進めています。
今回読んだのは、「身体について」の部の、「問い掛けと直観」の章からです。
メルロ=ポンティは身体の両義性について深く洞察した哲学者と言うことで、「身体」を表題としたこの部では、彼の思想の核心部分の一端に触れることができるのではないか、と期待していました。

ところがこの章では、「身体」に関する議論よりも、「本質」とは何か、「哲学的な問い」とは何か、といった問題を主に扱っていました。
ただ、「身体」を想起させる彼ならではの用語として、「肉」という言葉が随所に登場します。これは精神的なもの、形而上学的な理念と対置される、物質や具体的な何かを指し示しているのではなく、我々が見ることができ、触れる事ができる総てのものを覆う「厚み」を表現したものだとしています[p.103]。

この概念に関連していると思われる面白い例を、彼は後の章で示しています。それはものを触ろうとする左手を、右手で触った時の経験です[p.122]。左手は何か別の物に触れようと意図し、その感触を予感、あるいは期待しているときに、ふいに右手が左手に触れた時に、「触ろうとする感覚」と、「触れられた感覚」が一人の人の中に生じるでしょう。それでは果たしてこの感覚は、同時に生じるものなのでしょうか?それとも何らかの差があるのでしょうか?こうした経験の差を、「肉」という厚みとして捉えているのではないか、と思います。

そしてこうした疑問を受けて、「ではその背後にあるものは果たして何なのか?」という新たな問いが生じるかも知れません。言い換えると、「手で触れる事ができる事物の背後に隠れている本質は存在するのか?」という問いとも言えます。哲学に疎い僕などは、こうした議論が「哲学的な議論」の典型だと思っていました。しかし彼によると、一見「本質」の探求に向かうように見えるこの問い掛けは、何らかの具体的な「本質」が存在することを暗黙の了解としている点で問題があると指摘します。むしろ、「私は何を知っているか」という問い掛けこそ、最終的に「"ある"というのはどういう事なのか」という問い掛けに繋がる、重要な哲学的問いではないか、と説きます[p.112-113]。そしてその問いは、現実世界とは全く遊離した問題としてではなく、むしろ非常に日常的な疑問、例えば「私は今どこにいて、今何時なのか」という形としても現れるとしています[p.99]。この問いは、日常的な経験と事実を反映しつつ、世界そのものへと向かう尽きざる問いでもあるというのです。

「私は何を知っているか」を問い掛けの中心に据えること、この指摘は僕にとっても非常に心に響きました。前述のように、高度に形而上学的な議論に終始することが哲学の議論の有り様だと思っていた僕にとって、経験や時間、そして本質とが互いに交差する形で問い掛けを展開できると理解したことで、新たな思考の地平が拓けたように思います。とはいえ、まだまだ読み始めたばかりで、誤読や未消化な部分がほとんどを占めていることは十分知っています。しかし初学者が自らの未熟を隠匿していては、何らの歩みも望めないと自ら言い聞かせ、今後も逐次、自らの思索を「反省」していこうと思っています。
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by okphex | 2008-11-02 23:49 | 書籍

文化としての身体

メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
モーリス メルロ=ポンティ / / 筑摩書房
ISBN : 4480084681
スコア選択: ※※※※
メルロ=ポンティは現代フランスを代表する思想家です。恥ずかしながらこれまで彼の著作を直接読んだことがなかったのですが、「身体」「知覚」についての近代思想に対する関心から何冊か購入してみました。
まだ読み始めたばかりで、評を掛けるほどの知見を得てはいませんが、「心と身体」、「自然と人為」といったデカルト以来の二元論的思想をどのように批判的に乗り越えようとするのかを学ぶことは、僕自身のまさに「肉」となりそうな予感を抱いています。
とりあえず、一冊読み通してみます…。
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by okphex | 2008-10-31 23:56 | 書籍

『オリエンタルズ』

オリエンタルズ―大衆文化のなかのアジア系アメリカ人
ロバート G.リー / / 岩波書店
ISBN : 4000223909
スコア選択: ※※※※

アメリカにおいて、中国人や日本人、フィリピン人など「アジア人」が主流社会からどのようなまなざしを向けられ、扱われてきたのかを、様々な大衆文化から分析しています。
風変わりな外国人から、やがて危険な侵入者として見なされ、一転ある時期には模範的な市民としてなど、「アジア人」というラベルは時代に応じてその役割をめまぐるしく変化させます。
しかし一貫しているのは、常に白人主流社会という、「我々」とは異なった「彼ら」という他者に分類されてきたこと。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のチャイニーズ・マフィアは、アメリカ社会に深く静かに浸透する華僑社会を描き出し、他方「ブレード・ランナー」は渾然一体となり、国籍すらも喪失したアジアの「浸潤」を、ずぶ濡れのロサンゼルスに染み入る雑多な音声は示します。
歌、物語、映画、と時代毎に媒体は異なっても、大衆文化はその俗っぽさ故に、一片の真実を映し出します。
近年の映画はともかく19世紀の歌や風刺画といった貴重な資料を駆使した分析は見事です。
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by okphex | 2008-10-12 20:16 | 書籍

『会社は誰のために』

会社は誰のために
御手洗 冨士夫 / / 文藝春秋
ISBN : 4163683208
スコア選択: ※※※




本日は、広島から松山まで、日帰りの出張でした。しかも夜には西条で別の用件があったため、全ての行程を車で移動しました。
個人的なドライブならしまなみ海道の縦断も楽しいのでしょうが、仕事だと辛いだけですね。ふー。

そしてちょっとした待ち時間を利用して、『会社は誰のために』(御手洗 冨士夫, 丹羽 宇一郎 著 文藝春秋)を読みました。
キヤノンと伊藤忠商事という、日本有数の企業のトップ経験者が、「会社とは何か、何のために存在するのか?」について短いが直接的な文章で纏めています。
どの節の表題も、そのまま企業の社長室などに飾られていそうな言葉ばかりです。
そして本文で述べられている主張も、反論の余地がないほどの正論で、彼らのような経営者ばかりであれば、日本の未来はさぞかしバラ色であろうと思わせます。

しかし、とりわけキヤノンの昨今の不祥事を知るにつけ、経営者の清談は別の意味で心して読む必要がありそうです。世界的な金融危機と、日経平均株価の急落に見舞われている現在、この本を読む機会に恵まれたのはある種の運命の皮肉でしょうか…。
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by okphex | 2008-10-10 23:57 | 書籍

表面と本質。

(昨日に引き続いた文章です)
僕自身は武術も格闘技もほとんど練習したことはありません。
またテレビで試合を観戦したり、武術映画を観ることも好きではありません。
痛そうですから…。

それなのに、バリバリの武術家を研究して、いつしか日々が過ぎていました。
最近になって、僕が調査を続ける理由が少し分かってきたような気がします。
鍵となる言葉は、「結びつき」と「したたかさ」です。

その理由を是非書きたいところですが、現在はひどい風邪のため、また明日書きます。
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by okphex | 2008-10-05 23:54 | News-そのほか

活動の表面と本質。

僕は写真に関する仕事もしていますが、別の側面も持っています。

それは、文化人類学者のタマゴとして研究に勤しんでいることです。
そして研究対象として、僕が数年に亘って調査を続けている人々がいます。
彼らは出身も社会的な地位もバラバラですが、一つの共通項で結びついています。
それは何かというと、護身のための身体技法を修練する集団の構成員なのです。
こう書くと、なんだか不可思議、あるいはおどろおどろしいですね。
平たく言うと、武術を学ぶグループなのです。

僕の調査地では、昔から伝えられてきた武術があるとされており、
現在でも数々のグループが練習を行っています。
しかしその内容をよく見てみると、、空手のような胴着を着ていたりするなど、
外来の武道・武術の影響を強く受けていることが分かります。
現在に至るまでに、外来の様式に強く影響を受けてきたようですね。

それでは少し具体的に、どのような武術なのか描写してみましょう。
基本的にこの武術は、70センチほどの丸棒を使った技を用います。
丸棒は片手に一本持つこともあれば、両手に持つこともあります。
つまり、合気道のような素手の技ではなく、武器を使う技なのです。
二刀流の剣術か、剣道を想像してもらえると良いでしょうか。
競技として行う場合は、まさにこの丸棒で相手を「ぶっ叩く」と得点になります。
とはいえ、籐製や柔らかいクッションで包んだ武具なら怪我の危険性は低いです。
非常に痛いけど。
しかし護身術の場合は、技のかわしも含むため、見た目はもう少しスマートです。

(明日は、この武術に対する、僕自身の関心について書きたいと思います。)
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by okphex | 2008-10-04 22:25 | 人類学・人文科学