写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


by okphex
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タグ:内田樹 ( 15 ) タグの人気記事

I cannot live without you.

「人間はどのような時に、自分が”成熟した”と実感するか」という問いは、人類学者のプラースが追求したテーマでした。
この問いに関連する考察を、内田樹氏は”I cannot live without you.”というフレーズを使って説明しています。

”ほとんどの人は逆に考えていると思うけど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。”
”I cannot live without you.-私はこのyouの数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に活きる人間の社会的成熟の指標だと思っている。”
”「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。”
[内田 2011: 272-274]

このように言われて考えて見れば、生活や仕事で苦しい思いをすることの大部分は、「人に任せず自分の責任で全部しなければ」という義務感そのものに縛られたことから生じていたように思えます。少し肩の力が抜ける言葉ですね。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-02-14 16:16 | 本の言葉

2のn乗の先祖。

内田樹氏は、「人種概念」の構築性についての議論の中で、興味深い指摘をしています。

”僕たちの祖先は、親が二人いて、祖父母は四人います。つまり、代を遡っていくと祖先の数は二のn乗になるわけです。
二のn乗ということは、二十五代遡ると、僕の祖先の数は三〇〇〇万を越すわけです。平安時代頃の日本の人口はそんなにいません。つまり、僕の祖先達であるこの三〇〇〇万人の相当数が同一人物であるか、相当数の外国人が混じっていることになります。(略)三十三代遡ると、僕の祖先は八五億人になります。今地球上にいる人間の数より多いんです。”
[内田 2003: 208]
このような事実から、「純血人種」といった概念が、いかにナンセンスであるかということを明らかにします。
内田氏の議論の重要な点は、このような指摘を受けた問題は、しばしば全面的な否定、あるいは全面的な肯定と言ったように、両極端な思考パターンに陥りがちであることにまで議論を展開しているところです。

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内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-02-04 23:59 | 日々の文章
よく国会で「国益」をどのように守るのかという議論が白熱することがあります。しかしこの「国益」とは一体どのようなもので、誰が「国益」を守ることでその利益を享受するのでしょうか?
前者の問いに対しては、「健康な生活や福祉」、「経済的発展」を挙げることが出来るでしょうし、後者についてはもちろん「日本人」が候補の筆頭となるでしょう。
前者の答えは多岐に亘るでしょうが、それらの一つ一つについて、猛烈な異議を唱える人は一定の割合を超えないと思います。どんな形をとるものであれ、”それ”を得ることが少なくとも否定的な結果をもたらす物でないことが前提となっているからです。
しかし後者については、しばしばその解釈を巡って議論が錯綜してしまいます。
「日本人」という範疇を確定することが難しい上に、しばしば「国益」を言い出す人は、自らに近い立場の人びとだけを国益を享受できる「日本人」と規定して、それ以外の人びとを受益者的な立場から遠ざけようとする傾向があるからです。

内田樹氏は、オルテガ・イ・ガセー氏の「弱い敵とも共存できること」という「市民」の条件についての見解を援用して、このように述べています。

”国益とか公益とかそういうことを軽々しく口にできないのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならない、ということが「国益」や「公益」には含まれているからです。(略)自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。
自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか、わしは知らん言うような狭量な人間に「国益」を語る資格はありません。”
[内田 2003: 176-177]

最後の段落のメッセージはかなり強い調子ですが、実際に「国益」を語る者の多くがこのような傾向を備えていることを思うと、強い危機感を抱いてしまいます。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-31 23:59 | 日々の文章

「戦後民主主義」の夢。

「戦後民主主義」に対する評価は、平和実現という人類の理想を具現化した理念と、冷戦構造を無視した空想主義という、二つの間を彷徨ってきました。
しかし、「戦後民主主義」という理念は、戦争の惨禍によって、絶対的な価値観と繁栄の両方を同時に喪失するという辛酸をなめた「戦前世代」の人びとが作り上げたということを忘れてはならないと思います。

内田樹氏はこのように述べています。
”「戦後民主主義」というのは、すごく甘い幻想のように言われますけど、人間の真の暗部を見てきた人達が造型したものです。ただの「きれいごと」だとは思いません。誰にも言えないような凄惨な経験をくぐり抜け立てた人たちが、その「償い」のような気持ちで、後に続く世代にだけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた「夢」なんだと思います。”
[内田 2003: 93-94]

安易な付和雷同的態度や、冷め切ったシニズムではなく、現実をクールに評価しつつ、より現実をより良いものとするための責任を引き受ける、という態度と覚悟がこれからの世代に必要なのかもしれません。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-27 18:44 | 日々の文章

ビジネスとレイバー。

内田樹先生は、ビジネスとレイバーの意味合いの違いを、「リスクを取るかどうか」にかかっていると指摘しています。
”ビジネスにおいては、リスクを取る人間が決定を下します。…「リスクというのは負わされるものだ」というふうに思う人は、リスクをできるだけ回避しようとします。
確かにリスクは回避されますが、リスクを取らない人間は同時に決定権をも回避することになります。そういう人はビジネスには参加できません。…ビジネスとレイバーの差は、…その人が「リスクを取る」という決断をできるかどうか、その一点にかかっています。…リスクのないところに決定権はなく、決定権のない人は責任の取りようがなく、責任を取らない人間は「信義」の上に成立する社会にはいつまで待ってもコミットすることができないだろうと言うことです。”
[内田 2003:73-16]

これは社会における成熟した大人の役割にもあてはまる指摘と言うことができると思います。人間の成熟とは、単に経験を重ねたり、資本を蓄積する知恵を蓄えるだけでなく、自分とは異なった価値観や立場を持つ人びとの存在を、どれだけ引き受けることができるのか、その度量の深さではないかと思っているからなのです。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-25 23:59 | 日々の文章

労働の人類学。

内田樹先生は、故レヴィ=ストロース教授の親族構造における「交換」の原理を応用しつつ、労働という行為の持つ「贈与」の原理について以下のように語っています。

”賃金というものは労働者が作り出した労働価値に対してつねに少なくなる。そもそもそうしないと企業は利潤というものを挙げることが出来ない。労働は本質的にオーバーアチーブ、つまり人間が必要としているよりより多くのものを作りだしている。

この余分なものは、いわば個人から共同体への「贈り物」である。しかし、この「贈与」を、博愛主義的、人道主義的な動機として解釈してはならない。これはいわゆる「反対給付」、つまり既に受け取ったものを返す行為として行うのである。

労働主体は、その主体が立ち上がった時に、既に様々な贈り物を他者から受け取ってしまっている。この「債務」を精算しないといけない、という意識が、労働のオーバーアチーブを私達に義務づけているのである。”
[内田 2009: 162-165]
何が人間の経済活動の原動力となっているのかという問いに対して、「債務を負っている」という負い目の意識と、「返済」の義務感から説明している点が興味深いですね。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

内田 樹 / 講談社


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by okphex | 2011-01-19 17:11 | 日々の文章
高等教育の「実学志向」の動きが高まりつつある現在、「教育」に対する投資に見合った現実的な効果を求めることは、当然のこととなりつつあります。

しかし、教育を「ビジネスマインド」で捉える弊害を指摘する声は少なくありません。特に内田樹先生はたびたび「実学志向」教育を批判する強力な論陣を張っています。

”教育をビジネスマインドで捉えると言うことは、教育で得られる成果を「消費主体」で判断することを意味する。これは「学び」の本来的な意義を大きく損なうものだ。

消費主体が求めるのは、自らが投じた努力や投資を、できるだけ短期間で利益に変換して回収することだ。すぐに就職に結び付くような資格を得られるような学習内容、学ぶべき内容が予め一望できるシラバスは、この投資と利益回収の間隔を極力縮減する努力の中で編み出されていった。

このように、「消費主体」の根幹にあるものは、突き詰めれば『無時間性』だ。消費する主体は、差し出した対価に応じた利益を受け取ることを第一の目的としている。変化するのは対価物の形状であって、主体ではない。主体が学びの成果に応じて別の何かに変化するなど、「消費主体」の観点では全く想定していないのである。

だが、「消費主体」が「学び」を得ることはできない。なぜなら、「学び」とは、学ぶ姿勢の先に一体どのような結果があるのかを先取りすることが不可能である状況において、初めて立ち上がってくるものだからだ。

例えば、子どもが言葉を覚え始めた時に、「これから社会で生きていくためには親の話す言語を習得する必要がある」といった将来の利益を勘定に入れることは決してない。

教育の世界に市場原理を導入し、予測しうる成果を算出し、全ての行程を可視化する(ことができると考える)ことは、「学び」の自殺行為と言うべきだろう”
[内田 2009 『下流志向』 一部要約]
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by okphex | 2011-01-17 23:59 | 日々の文章
サンデル教授の議論にやや関連して、「リスク化」についての、内田樹先生の議論を紹介してみたいと思います。

現代社会を表現する用語に、「リスク社会」というものがあります。これは「社会がリスク化している状況」と定義することができます。それでは、「リスク化」とはどのような状態をさしているのでしょうか?内田先生は自著『下流志向』でこのように述べています。

"「リスク化」とは、社会の不確実性が増し、個人にとっては将来の生活予測可能性が低くなるということです。"[内田 2009:95]具体的には、大学を出たからといって就職が保証されなかったり、企業への就職が生活の安泰に結びつかない、といったように、努力と成果の安定的な関係が崩れていることが、「リスク化社会」の特徴であるといいます。

社会に不確実性が存在することは当然ですし、成果と結果との間には、ある程度の幅があることもまた然りでしょう。
内田先生が問題視するのは、この「リスク化」と「自己責任論」とが結びついた時に、すべてのリスクの結果を個人が自らの責任として引き受けざるを得なくなる、という状況の持つ危険性です。

リスクを負う責任が、社会のあらゆる階層に均等に振り分けられているとすれば、「自らの行動の責任は、全て自らが引き受けるべき」とする「自己責任論」にも一定の説得力を認めることができます。

しかし、現実の社会は、「リスクの少ない社会階層」と、「リスクの多い社会階層」の二極化が生じているといいます。つまり、一方には、"「努力は報われない」ということを、(経済格差や教育機会の少なさから) 骨身にしみて味わい、ますます努力することの動機づけを失う"人々の階層があり、他方には、"(恵まれた経済状況や機会を与えてくれる人間関係により)「努力は報われる」ということを確認し、それによってますます努力することの動機づけを強化"する人々の階層が存在する、ということです[同 :100]。

こうした現実の状況に鑑みれば、「全ての行動の成否の責任は個人が負わねばならない」とする「自己責任論」は、論理的にかなり無理があることが分かります。

「自己責任論」が想定するような、全ての行動の責任を取ることができる個人とは、後者の階層に所属する人々、つまり、社会的にかなり恵まれた立場にいる人々だけです。しかし、こうした人々が相対的に社会で高い地位を保つことができるのは、実はその人物が、社会の相互扶助・相互支援ネットワークに属していることが前提となります。ということは、「リスク社会」においては論理的には"自己決定・自己責任を貫けるような強者は存在しない"ということになるというのです。そしているのは、"自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者だけ"だと指摘します[同:127]。

こうした「強者」の例として内田先生が挙げているのが、ロスチャイルド財閥です。ロスチャイルド一族は、銀行業によって蓄積した莫大な富と、 絶大な政治力を駆使して繁栄を続けた、典型的「強者」のように見えます。ところが実は、ロスチャイルドの親族達は、それぞれ全く異なった場所で銀行を運営するなどして、どのような突発的事態が生じてどの銀行が危機に陥いっても、一族としては存続可能なように巧みにリスクを分散してきたというのです[同:120]。実際、多くのロスチャイルド系の銀行は経営破綻や戦争による営業停止などの「失敗」を経験していますが、こうした影響を回避できた人物が、一族を維持させてきました。

このように、社会におけるいわゆる「強者」が、"「決定の成否にかかわらずその結果責任をシェアできる相互扶助的集団」"[同:121]を構築してきたにもかかわらず、多くの自己責任論においては、「個人がリスクを引き受ける、あるいは回避する全面的な責任を負う」という原理的に不可能な理路を前提としており、こうした相互扶助的集団の重要性を指摘しているものはほとんど見あたらないようです。

「自己責任論」に基づいた「リスク化社会の対処方法」の普及は、結果として膨大な数の構造的弱者を作り出すだけではないか、というのが、内田先生の見解です。[同:127]

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

内田 樹 / 講談社


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by okphex | 2011-01-16 14:24 | 日々の文章

「武道」が教えること。

大学教授であり、「兼業武術家」でもある内田樹先生は、常々武道の修養の重要性を説いています。
しかし、「そのような格闘の技術にどれだけ精通していても…そのこと自体が究極の目的であるはずがない」[内田 2010: 107]「現代ではこうした格闘技術を活用することで自己利益を確保するような状況に遭遇することはまずあり得ない」からだと言います。
では、何のために武道を学ぶのでしょうか?その目的は、一つは「実践的な意味での生きる力を開発すること」[同: 108]だそうです。つまり、巻き込まれそうなトラブルを予め回避できるように、身体のセンサーの感度を上げることを意味します。
そしてもう一つは、「他者と共生する技術」であるといいます。例えば合気道では、単に誰かを力で圧倒したり、威圧するために技を学ぶことはないそうです。合気道の要諦は、技をかける相手との身体の波長を同期して、互いの技をより高めることを目的としているということです。こうした目的を達成するためには、相手と合わせるように意識を向けることが必須となります。
合気道以外にも、幾つかの種類の武道の中には、格闘技術を精緻化するとか、身体能力の優劣を競うことを実践の中に取り入れていないものがあります。こうした武道が目指すものも、合気道と極めて類似していると考えられます。
現代も多くの人が武道を学んでいますが、これも「他者と共生する能力の涵養」を無意識的に求めている証左なのかも知れません。
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by okphex | 2011-01-09 21:23 | 日々の文章
内田樹先生は、学問と「礼」の関係について、以下のようなことを述べています。
現代社会におけるコミュニケーションの分断状況についても考えさせられる、重要な指摘だと思います。
”中国では、六芸、つまり「礼楽写御書数」を君子が学ぶべき学問としていた。
「礼」とは葬礼の作法のことである。
そして葬礼とは、「究極の他者」である死者があたかもそこに存在しているかのように振る舞う儀式である。
このように、死者を「祀る」という概念を持っているのは人間だけである。
しかし、日本の教育が「礼」をカリキュラムに取り入れなくなって久しく、また葬礼も簡略化する傾向が顕著である。
果たしてこうした動きは「合理的」な選択なのだろうか”
参照:[内田樹 2010 『武道的思考』 p.139]
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by okphex | 2011-01-07 18:29 | 日々の文章