写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


by okphex
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

タグ:人類学 ( 49 ) タグの人気記事

前後の文脈を飛ばした引用ですが、中沢氏は自著で、贈与行為の機能を、等価交換と対比する形で以下のように述べています。
”贈与はいっさいの等価交換を否定する。贈与の空間の中に入った「もの」たちは、どれも個性的な顔を持っている。その個性を、単純な価値に還元して、お互いを比較しあって値踏みしあったりすること(筆者註:等価交換のことだと思われます)を、この空間はまっさきに否定するのだ。どの「もの」も、単純な意味、単一の価値でできていない。それぞれが個性と複雑さをそなえている。だから、そういう「もの」どうしを等価交換しあったりできない、というのが、贈与の精神の原則なのだ。
ここでは、あらゆる存在や価値や意味が、おたがいに向かい合って、呼びかけをおこなったり、対話したり、場所を移動したり、結婚したり、分かれたり、またくっついたり、子供をつくったりするのである。送り手と受け取り手、語り手と聞き手が、ここでは共通の領土を共有しあって、その中でおたがいに影響をおよびしあいながら、未知の構造をつぎつぎとつくりだしていくのだ。等価交換が支配している世界では、そのような「創造」は原理として不可能だ。ものの変態はおこっても、新しい構造の創造はおこらない。存在の本質的な様態のつくりかえをもたらす、ハイデッガーの言う「転回(ケーレ)」は、ただ贈与的な世界でしかおこらないようにできている。”[中沢 2009:191-192]
上記の記述は、「贈与」と「等価交換」の違いと、それらの差異が社会に及ぼす影響を指摘した、スリリングな記述だと考えます。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


[PR]
by okphex | 2011-02-28 23:52 | 本の言葉

資本と増殖。

中沢氏によると、資本を意味するキャピタル(capital)は古代ローマにおいて人の頭を意味するcaputにちなんでいたということです。

古代ローマにおいて、人の頭を生殖と力を司る象徴としていたことに因んでいます。つまり、貨幣という身体の頭部(先端)において、自らを増殖させるものとして、利子など、貨幣から派生するものを資本と呼んだのだというのです。

しかし貨幣とは、本来「等価交換」を前提としているはずですでした。即ち、1の価値をもつ貨幣は、1の価値を持つ事物とのみ交換可能であるという考え方です。

しかし、資本(capital)は、まるで生物のように自己増殖が可能な場合があります。銀行に貯めた預金が、利子によって徐々に増加する状況がそれにあたります。

”資本は、等価交換を「ゲームの規則」としながら、自分を増殖させていくのである。等価交換のプロセスを結晶させたような貨幣に、いったいどうしたらこんなことが可能なのだろうか。”
[中沢 2009: 96-99]

この問題をどのように捉えるべきか。中沢氏はその手掛かりとして、「重農主義」の議論を提示しています。

いったい重農主義とはどのような考え方なのか、次回さらに考察してみたいと思います。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


[PR]
by okphex | 2011-01-23 23:07 | 日々の文章

労働の人類学。

内田樹先生は、故レヴィ=ストロース教授の親族構造における「交換」の原理を応用しつつ、労働という行為の持つ「贈与」の原理について以下のように語っています。

”賃金というものは労働者が作り出した労働価値に対してつねに少なくなる。そもそもそうしないと企業は利潤というものを挙げることが出来ない。労働は本質的にオーバーアチーブ、つまり人間が必要としているよりより多くのものを作りだしている。

この余分なものは、いわば個人から共同体への「贈り物」である。しかし、この「贈与」を、博愛主義的、人道主義的な動機として解釈してはならない。これはいわゆる「反対給付」、つまり既に受け取ったものを返す行為として行うのである。

労働主体は、その主体が立ち上がった時に、既に様々な贈り物を他者から受け取ってしまっている。この「債務」を精算しないといけない、という意識が、労働のオーバーアチーブを私達に義務づけているのである。”
[内田 2009: 162-165]
何が人間の経済活動の原動力となっているのかという問いに対して、「債務を負っている」という負い目の意識と、「返済」の義務感から説明している点が興味深いですね。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

内田 樹 / 講談社


[PR]
by okphex | 2011-01-19 17:11 | 日々の文章

「贈与」とは。

中沢新一氏は自著でこのような逸話を紹介しています。「モノの交換」という行為を考える上で、興味深い内容だと思い、ご紹介します。
「アメリカ大陸にヨーロッパからの入植者が移住し始めた頃、あるネイティブアメリカンが赴任した司政官に儀礼用の煙草のパイプを贈り物として手渡した。司政官は感謝して、それを彼の職場の暖炉に飾った。
ある時そのネイティブアメリカンが司政官の事務室を訪問した時に、以前贈ったパイプが暖炉に安置されているのを見て激しい衝撃を受けた」
我々の感覚では、賓客から贈与された品物を大事に飾ることはその贈り物に対する感謝を表した、ごく自然な行為であるように思えます。
ではなぜ、上記のネイティブアメリカンは衝撃を受けたのでしょうか。
中沢氏の解説によると、彼らネイティブアメリカンの社会では、贈り物を贈られた場合、それに見合った返礼をするか、あるいは別の人にさらに贈与しすることが当然であると考えていたというのです。こうした考え方は、単に物品を独り占めすることが良くない、という意味合いを含んだものではなく、彼らにとって特定の個人が物品を独占し、その流通をせき止めてしまうことは、その物品に宿っている霊的な存在もまた封じ込めてしまうことも意味していたというのです。この逸話には、あらゆる「もの」は、蓄積するものではなく、人から人へ受け渡していくことで、初めてその効力を発揮するという考え方が根底にあるようです。
「贈与」が前提になった物品の所有という考え方は、「貨幣」という、価値の象徴物をいかに蓄積するかで社会的な優劣が決定する、我々が無意識的に想起する社会のあり方と大きく異なっているようですね。
「中沢新一 2009 『純粋な自然の贈与』]

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


[PR]
by okphex | 2011-01-12 23:43 | 日々の文章

「クラブ」の成立。

現在、綾部恒雄著『クラブの人類学』という本を読んでいます。
1988初版と、やや古い本ですが、「フリーメーソン」に代表されるような秘密結社の成立過程だけでなく、「ロータリークラブ」や「ライオンズクラブ」といった、日本でも有名な、でも会員でない人にはどのような役割を持った組織なのか良く分からないクラブの設立からその特色まで、丁寧に解説してあってとても参考になります。
本書の肝は、「約縁集団」としてのクラブやアソシエーションの組織的構造や特色を明らかにしようとした考察です。こうしたテーマを卒論などで追求しようとする学生には、必読の書と言えそうです。
[PR]
by okphex | 2010-10-22 22:04 | 人類学・人文科学

談話会のお知らせ。

11月13日に、岡山大学で文化人類学の地方談話会が開催されます。
一つは日本における「手当て」の医療的な意味を考察した研究、もうひとつはインドネシア、ジャワの社会関係に関する研究です。
会場は岡山大学 一般教育棟D棟3階 D35教室、開催時間は14~18時です。
関心をお持ちの方はぜひ。
[PR]
by okphex | 2010-10-08 21:08 | 人類学・人文科学

コミュニティとは。

アメリカのろう文化 (明石ライブラリー)

明石書店



文化人類学の取り組む大きな課題として、「人はなぜ、集団を作りたがるのか?」「どのような要因が、集団のまとまりをもたらす核となるのか?」といった、集団形成に関わる問題があります。
コミュニティについての研究は、上記のような問いに取り組む中で培われていった分野の一つです。

現在『アメリカのろう文化』(ウィルコックス 2001)という本を読んでいますが、ちょうどその中で、社会学者のジョージ・ヒラリーによるコミュニティの定義について触れていました。
ヒラリーによると、コミュニティにおいては、1.人々は共通の目的遂行のために協力しあい、2.内部の成員同士は、自らの社会生活についてある程度の決定権を有しているとしています。
この定義は、理念型としてのコミュニティを定義する上で、過不足なくポイントを抑えているように思えます。
しかし問題は、現実に一つのコミュニティとみなされる集団は、成員全員が必ずしも共通の目的を共有していなかろうが、成員のうちの何割かが自らの行動や生活についての決定権を著しく制限されている状態でも、結構成り立ってしまっているところにあります。

それでは、コミュニティを定義することに一体どのような意味があるのでしょうか?僕は、コミュニティの凝集性を前提として議論を始めるよりも、むしろ行動の上でも思想信条の上でも、かなり分散している状態にある人々同士が、一体いかなる意図や条件に応じて、状況に応じて、同じコミュニティに属することを選択的に受け入れるのか、という段階から話を始めた方が、現実のコミュニティ形成の複雑さを掬い上げることが可能ではないかな?と考えています。

あらゆるコミュニティを目的指向型集団として定義することよりも、こうした曖昧な紐帯で結びついた集団としてのコミュニティを考えてみることも「あり」ではないかと思うのですが、どうでしょうか!?
[PR]
by okphex | 2010-09-24 04:17 | 人類学・人文科学

読書会の効用。

本日は大学院にて、読書会に参加してきます。

扱う文献は、文化人類学の古典として知られる、エヴァンス・プリチャード著『ヌアー族』です。
実はこの文献を使った読書会は以前にも行ったことがあり、今回が二回目となります。

研究内容は半世紀も前のものとなるため、必ずしも現在の研究にそのまま応用できるという訳ではありませんが、「名著」と呼ばれる本を読むことは、練り上げられた思考や表現力を味わう絶好の機会となるため、心掛けて読むようにしています。

しかし、「名著」は結構分厚い場合が多いので、一人で読むにはなかなか骨が折れます…。そこで、輪読したり本の内容を何人かで話し合う「読書会」が重要になってくるのです。

僕が主催する読書会は、恐らく普通に行われているものと内容が少し異なっていて、事前のレジュメ作成は特に求めず、実際に集まっての討論に重点を置いています。
そのため、読書会がどのような方向を取るのか、実は主催者である僕も分かっていないのです。

それだけに、まさに「ライブ」の読書体験を味わう事ができそうですね。楽しみです。
[PR]
by okphex | 2010-09-01 07:17 | 人類学・人文科学

『変貌する大地』

現在、ウィリアム・クロノンの『変貌する大地』(1995 勁草書房)という本を読んでいます。
この本では、北米にヨーロッパの入植者が進出を開始した際に、生態系がどのように変化していったのかについて考察しています。
ここで問題となるのは、単なる生物学的な環境変化ではなく、ヨーロッパからの入植者と、それ以前から北米大陸に住んでいた先住民との間で環境の捉え方がどのように異なっていたのか、という認識と、それに伴った環境の操作のありようです。
例えば、先住民にとってバッファローは聖なる意味合いを帯びた動物だったが、入植者にとっては毛皮を得るための資源として映った。さらに先住民にとってバッファローが重要な意味を帯びていることを知ったことで、バッファローを「戦略的」に殲滅することで、結果として先住民を追い込んでいった…、といった動きが描かれます。
非常に興味深い例え話として、誰もが知っている「三匹の子豚」の物語があります。子豚の住んでいる家が藁葺き、木造、レンガ造りと変わっていくのは、まさに入植者の居住環境の変化であるといいます。また、オオカミは、入植者の目から見た、悪しき自然の象徴で、最後は油によって煮られてしまう…、という展開は、大陸に入植している過程を寓話として説明したものだと言います。
環境から生態系の変容を見ていく重要性を教えてくれる一冊です。
[PR]
by okphex | 2010-07-16 23:13 | 書籍

政治における”男臭さ”

現在サイデルという政治学者が書いた、"Capital, Coercion, and Crime"という本を読んでいます。
"Capital, Coercion, and Crime"
サイデルは、フィリピンの地方で広く見られる、大土地所有者や政治家らが、時には暴力や威圧といった手段を用いつつ、その政治的権力を行使していく政治形態を、”ボシズム(bossism)”と名付けて、その構造を分析しています。
”ボシズム”を採用している社会に住む民衆には、単なる貧富の差よりも、どれだけ”強い”庇護者(ボス)の傘下に収まるかが、大きな問題となります。強いボスなら自分たちもさまざまな利益を引き出すことができますが、逆に弱いボスだと、利権が根こそぎ奪われてしまいかねないためです。

サイデルは、ボス同士の力関係を決定する要素として、端的に直接的な暴力と威圧を挙げています。ボス同士は、しばしば激しい縄張り争いを繰り広げながら、互いの影響力を拡大しようとしてます。
このように、サイデルの描くフィリピン地方政治は、まさに日本における”切った張った”のヤクザの世界のようです。しかし、こうしたサイデルの描く構図を考察するに際しては、アメリカの政治、文化人類学者に良く見受けられるような、西欧型民主主義政体を理想とし、それ以外の政治形態を、民主政治の不完全な形態と見なす、西欧中心主義的な観点がしばしば忍び込んでいる可能性があることを認識する必要があります。彼らの主張の中立性、客観性には、一定の留保が必要でしょう。

こうした点に配慮をようするとしても、僕自身は”ボシズム”という概念には非常に興味を持っています。この世界に生きる地方権力者達は、極めて”男臭い”価値観、行動原理を隠そうともしていないからです。世界の趨勢が、男臭い価値観を拒否し、性全般の前景化を忌避する方向性に向かっているのとは対照的な、「泥臭い」振る舞いのあり方には、なぜか大変興味を引かれてしまいます。
僕のこれまでのフィリピン研究の蓄積が、何とかフィリピン社会の”男らしさ”の価値観を解明する手掛かりとならないかなー、と思案中です。
[PR]
by okphex | 2010-05-03 23:37 | 人類学・人文科学