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by okphex
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よく国会で「国益」をどのように守るのかという議論が白熱することがあります。しかしこの「国益」とは一体どのようなもので、誰が「国益」を守ることでその利益を享受するのでしょうか?
前者の問いに対しては、「健康な生活や福祉」、「経済的発展」を挙げることが出来るでしょうし、後者についてはもちろん「日本人」が候補の筆頭となるでしょう。
前者の答えは多岐に亘るでしょうが、それらの一つ一つについて、猛烈な異議を唱える人は一定の割合を超えないと思います。どんな形をとるものであれ、”それ”を得ることが少なくとも否定的な結果をもたらす物でないことが前提となっているからです。
しかし後者については、しばしばその解釈を巡って議論が錯綜してしまいます。
「日本人」という範疇を確定することが難しい上に、しばしば「国益」を言い出す人は、自らに近い立場の人びとだけを国益を享受できる「日本人」と規定して、それ以外の人びとを受益者的な立場から遠ざけようとする傾向があるからです。

内田樹氏は、オルテガ・イ・ガセー氏の「弱い敵とも共存できること」という「市民」の条件についての見解を援用して、このように述べています。

”国益とか公益とかそういうことを軽々しく口にできないのは、自分に反対する人、敵対する人であっても、それが同一の集団のメンバーである限り、その人たちの利益も代表しなければならない、ということが「国益」や「公益」には含まれているからです。(略)自分に反対する人間、自分と政治的立場が違う人間であっても、それが「同じ日本人である限り」、その人は同胞であるから、その権利を守りその人の利害を代表する、と言い切れる人間だけが日本の「国益」の代表者であるとぼくは思います。
自分の政治的見解に反対する人間の利益なんか、わしは知らん言うような狭量な人間に「国益」を語る資格はありません。”
[内田 2003: 176-177]

最後の段落のメッセージはかなり強い調子ですが、実際に「国益」を語る者の多くがこのような傾向を備えていることを思うと、強い危機感を抱いてしまいます。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-31 23:59 | 日々の文章

お食い初め。

本日は、甥っ子の「お食い初め」の日でした。
ウィキペディアによると、お食い初めとは、
”新生児の生後100日目(または110日目、120日目)に行われる儀式。(略)「百日(ももか)の祝い」「歯がため」と呼ぶ地域もある。(略)「一生涯、食べることに困らないように」との願いを込めて食事をする真似をさせる儀式である。”ということです。
参照:ウィキペディア「お食い初め」

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この説明通り、今日は親戚一同が集まって、まず甥っ子の「お食い初め」の儀式を行い、その後は食事となりました。

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この日は、ミルクや母乳から離乳食へ切り替わるきっかけともなる場合があるそうです。
いよいよ本格的に、社会的に人となっていく節目となる、重要な時期なんですね。

そういえば、それまでは寝ているか泣いてばかりいた甥っ子が、ずいぶん人懐っこい笑顔を見せるようになりました。

丸っこい顔で、しかもまだ髪が生えそろっていないので、まるでお地蔵様のような”尊さ”を感じさせる笑顔でした~。
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by okphex | 2011-01-30 19:15 | ギャラリー

旅と文学。

高村薫氏が何かのインタビューで、自らの小説について、「主人公が必ず最初の場所に戻ってくる。その時に一体何が変化し、主人公がどのように成長したのかが物語の鍵です」と語っていたことを読んだことがあります。

同じく小説家の村上春樹氏も、インタビューの過程で同じく、「主人公の旅としての文学」について語っています。

”(インタビュアー)―自国から遠く離れた場所で執筆する価値とは?

旅行の目的は(ほとんど)すべての場合―パラドクシカルな言い方ではあるけれど―出発点に戻ってくることにあります。

小説を書くのもそれと同じで、たとえどれだけ遠いところに行っても、深い場所に行っても、書き終えたときにはもとの出発点にもどってこなくてはならない。それが我々の最終的な到達点です。

しかし我々が戻って来た出発点は、我々が出て行ったときの出発点ではない。風景は同じ、人びとの顔ぶれも同じ、そこに置かれているものも同じわけです。

しかし何かが大きく違ってしまっている。そのことを我々は発見するわけです。

その違いを確認することもまた、旅をすることの目的のひとつです。”
[村上 2010: 186-187]

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上 春樹 / 文藝春秋


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by okphex | 2011-01-29 05:44 | 日々の文章

労働と余剰。

以前に、内田樹氏が提示した「労働の人類学」の観点の一つとして、「労働は常にオーバーアチーブ(過剰)となる」という議論を紹介しました「労働の人類学。」
中沢新一氏も、労働について、マルクスの言葉を引用しつつ、同様に「労働のオーバーアチーブ」について言及しています。

”私たちの生きている資本主義社会でも、まぎれもない過剰価値の発生が、起こっているのである。

それは、資本家が労働者から物質化された商品を買わないで、労働力自身を買うことから生まれる。

労働力は、それが生産する物よりも、小さい価値しか持っていないからだ。

なぜならそれは(…)ヴァーチャルな空間を生きているものであるから、その力が顕在化してつくりだす物よりも、この社会では、小さな価値づけしか与えられないからである。

資本家は、ヴァーチャルな力を価格どおりに買うことによって、物質に顕在化された世界に、剰余価値を発生させることに、成功したのである。等価交換という「ゲームの規則」を少しも侵害することなしに、しかも豊穣な大地の与える「自然の贈与」なども必要としないで、それは実現されたのだ。”
[中沢 2009: 108]

中沢氏によると、資本家は商品そのものでなく、労働する身体を維持するのに必要な価値に基づいて価値を決め、それを買い取ることで、剰余価値を生み出したと指摘します。
その価値の基準となったのが、「労働時間」であり、労働者が生活するのに必要とする「生活費」だったというのです。これが現在、「就業時間」や「基本給(あるいは時給)」として私達が仕事の内容を判断する基準ともなっていることは言うまでもありません。

中沢氏は、この価値の基準を定める際の問題点として、それが労働力を提供する側の「知的な抑圧」の上に成り立っていることにあると指摘します。
私達は未だ、価値を正しく計測できる数字を持ってはいません。未だ確立していない基準を前提として、現実の身体を労働力として買い取るという状況を、マルクスは「観念の転倒と表現手段の未発達」であると指摘します。そしてマルクスは「弁証法的唯物論」を、この転倒した観念を破壊する手段として提示したと言うことです。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


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by okphex | 2011-01-28 06:49 | 日々の文章

「戦後民主主義」の夢。

「戦後民主主義」に対する評価は、平和実現という人類の理想を具現化した理念と、冷戦構造を無視した空想主義という、二つの間を彷徨ってきました。
しかし、「戦後民主主義」という理念は、戦争の惨禍によって、絶対的な価値観と繁栄の両方を同時に喪失するという辛酸をなめた「戦前世代」の人びとが作り上げたということを忘れてはならないと思います。

内田樹氏はこのように述べています。
”「戦後民主主義」というのは、すごく甘い幻想のように言われますけど、人間の真の暗部を見てきた人達が造型したものです。ただの「きれいごと」だとは思いません。誰にも言えないような凄惨な経験をくぐり抜け立てた人たちが、その「償い」のような気持ちで、後に続く世代にだけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた「夢」なんだと思います。”
[内田 2003: 93-94]

安易な付和雷同的態度や、冷め切ったシニズムではなく、現実をクールに評価しつつ、より現実をより良いものとするための責任を引き受ける、という態度と覚悟がこれからの世代に必要なのかもしれません。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-27 18:44 | 日々の文章

資本の増殖。

以前に述べた貨幣の増殖の問題について、マルクスの記述を紹介します。中沢新一氏によると、フィジオクラット(重農主義者)は無限の豊穣をもたらす大地が、作目という形で価値の増殖現象を説明しようとしました。一方マルクスは、近代社会の労働力と富の増殖というさらに難しい問題に取り組みました。

”貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、従って等価物どうしの交換が当然出発点と見なされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である”

マルクスは、フィジオクラットが剰余価値として発見したものは、産業社会の世界では、「労働力」の形で現れることを見出したと言うことです。
[中沢 2009: 103-106]

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


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by okphex | 2011-01-26 23:57 | 日々の文章

ビジネスとレイバー。

内田樹先生は、ビジネスとレイバーの意味合いの違いを、「リスクを取るかどうか」にかかっていると指摘しています。
”ビジネスにおいては、リスクを取る人間が決定を下します。…「リスクというのは負わされるものだ」というふうに思う人は、リスクをできるだけ回避しようとします。
確かにリスクは回避されますが、リスクを取らない人間は同時に決定権をも回避することになります。そういう人はビジネスには参加できません。…ビジネスとレイバーの差は、…その人が「リスクを取る」という決断をできるかどうか、その一点にかかっています。…リスクのないところに決定権はなく、決定権のない人は責任の取りようがなく、責任を取らない人間は「信義」の上に成立する社会にはいつまで待ってもコミットすることができないだろうと言うことです。”
[内田 2003:73-16]

これは社会における成熟した大人の役割にもあてはまる指摘と言うことができると思います。人間の成熟とは、単に経験を重ねたり、資本を蓄積する知恵を蓄えるだけでなく、自分とは異なった価値観や立場を持つ人びとの存在を、どれだけ引き受けることができるのか、その度量の深さではないかと思っているからなのです。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


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by okphex | 2011-01-25 23:59 | 日々の文章
サンデル教授は、「正義」についての議論の過程で、所得分配の公平性について触れています。その例として挙げているのは、有名なバスケットボール選手のマイケル・ジョーダン氏の報酬についてです。

ジョーダン氏は1997-98年のシーズン中に3100万ドルもの報酬を得ました。
これは、一般の労働者の得る所得と比較すると途方もない金額であることはもちろんのこと、同じバスケットボール選手の中でもずば抜けて高い数字です。
ちなみに1970年代初めのバスケットボールのスター選手、ウィルト・チェンバレン氏が得た報酬は、一シーズン20万ドルでした。

社会の一方の側には無給の失業者がおり、もう一方には一般の労働者の生涯所得の数百倍にも及ぶ報酬を一年で稼ぐスポーツ選手が存在することは、所得分配の公平性という観点からみて、健全と言えるでしょうか?

ジョーダン氏が得た報酬のかなりの部分を強制的に徴収して、恵まれない人々に配分するというのは、一見して良い考えかも知れません。しかし、ジョーダン氏の試合に対して、誰かの強制なしに、むしろ喜んで観戦料を払う観客から報酬を得ることは、極めて公正な資金回収方法ではないでしょうか?公平な手段で得た報酬を、ジョーダン氏から強制的に取り上げるという措置は、彼の権利を侵害していることにならないでしょうか?このようにサンデル教授は議論を進めます。

”誰かの労働の成果を奪うことは、その人の時間を奪い去ること、またさまざまな活動を行うように命じることと同じである。人びとがあなたに何らかの仕事を、あるいは報酬のない仕事をある期間行うように強制するならば、彼らはあなたが何をすべきか、何のために働くべきかを、あなたの意志とは無関係に決めているのだ。そうだとすれば…その人びとはあなたの一部を所有していることになる。つまり、あなたに対する所有権を持っていることになる。”
[サンデル 2010: 87]

このようにサンデル教授は、リバタリアン(自由至上主義)の論点を明らかにします。そしてこの後、リバタリアン的見解に対する反論の紹介という形で、私的所有の正当性についての議論をより深めていきます。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

マイケル・サンデル / 早川書房


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by okphex | 2011-01-24 15:32 | 日々の文章

資本と増殖。

中沢氏によると、資本を意味するキャピタル(capital)は古代ローマにおいて人の頭を意味するcaputにちなんでいたということです。

古代ローマにおいて、人の頭を生殖と力を司る象徴としていたことに因んでいます。つまり、貨幣という身体の頭部(先端)において、自らを増殖させるものとして、利子など、貨幣から派生するものを資本と呼んだのだというのです。

しかし貨幣とは、本来「等価交換」を前提としているはずですでした。即ち、1の価値をもつ貨幣は、1の価値を持つ事物とのみ交換可能であるという考え方です。

しかし、資本(capital)は、まるで生物のように自己増殖が可能な場合があります。銀行に貯めた預金が、利子によって徐々に増加する状況がそれにあたります。

”資本は、等価交換を「ゲームの規則」としながら、自分を増殖させていくのである。等価交換のプロセスを結晶させたような貨幣に、いったいどうしたらこんなことが可能なのだろうか。”
[中沢 2009: 96-99]

この問題をどのように捉えるべきか。中沢氏はその手掛かりとして、「重農主義」の議論を提示しています。

いったい重農主義とはどのような考え方なのか、次回さらに考察してみたいと思います。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


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by okphex | 2011-01-23 23:07 | 日々の文章
村上春樹氏は、インタビューの中で小説を書くことを夢を見ることに似ていると指摘しています。
”小説を書くと言うことは、夢を見ることに似ているかもしれない。それは現実には起こっていないのだけど、それを見ているときには、その人にとっては、その夢の中の出来事は、実際に起こっているのです。つまり、小説家とは、覚醒しながら夢を見ることができる人々なのだという言い方もできます。それは特別な資格であり、特別な能力であると、僕は考えています。”
[村上 2009: 176-177]

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上 春樹 / 文藝春秋


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by okphex | 2011-01-22 06:47 | 日々の文章