「ほっ」と。キャンペーン

写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


by okphex
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28

カテゴリ:本の言葉( 9 )

サンデル氏は自著でアリストテレスの「徳」と「幸福」についての見解を紹介しています。
”アリストテレスは「幸福」という言葉を功利主義的な意味-快楽を最大に、苦痛を最小にすること-で使っていない。徳のある人とは、快楽と苦痛を、それぞれ適性に感じる人のことだ。…道徳的にすぐれている人は、快楽と苦痛を集計するのではなく、それらを一つの線上に並べ、崇高なものを喜び、卑劣なものに苦痛を感じるものなのだ。幸福とは心の状態だけでなく人間のあり方であり、「美徳に一致する魂の活動」なのである。”
[サンデル 2010: 255]

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

マイケル・サンデル / 早川書房


[PR]
by okphex | 2011-03-29 23:59 | 本の言葉
前後の文脈を飛ばした引用ですが、中沢氏は自著で、贈与行為の機能を、等価交換と対比する形で以下のように述べています。
”贈与はいっさいの等価交換を否定する。贈与の空間の中に入った「もの」たちは、どれも個性的な顔を持っている。その個性を、単純な価値に還元して、お互いを比較しあって値踏みしあったりすること(筆者註:等価交換のことだと思われます)を、この空間はまっさきに否定するのだ。どの「もの」も、単純な意味、単一の価値でできていない。それぞれが個性と複雑さをそなえている。だから、そういう「もの」どうしを等価交換しあったりできない、というのが、贈与の精神の原則なのだ。
ここでは、あらゆる存在や価値や意味が、おたがいに向かい合って、呼びかけをおこなったり、対話したり、場所を移動したり、結婚したり、分かれたり、またくっついたり、子供をつくったりするのである。送り手と受け取り手、語り手と聞き手が、ここでは共通の領土を共有しあって、その中でおたがいに影響をおよびしあいながら、未知の構造をつぎつぎとつくりだしていくのだ。等価交換が支配している世界では、そのような「創造」は原理として不可能だ。ものの変態はおこっても、新しい構造の創造はおこらない。存在の本質的な様態のつくりかえをもたらす、ハイデッガーの言う「転回(ケーレ)」は、ただ贈与的な世界でしかおこらないようにできている。”[中沢 2009:191-192]
上記の記述は、「贈与」と「等価交換」の違いと、それらの差異が社会に及ぼす影響を指摘した、スリリングな記述だと考えます。

純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)

中沢 新一 / 講談社


[PR]
by okphex | 2011-02-28 23:52 | 本の言葉
現在、僕が文化人類学の学生研究者として、2008年までフィリピンで収集した、多くの方々の証言を記述し、それぞれの関係を検討しています。

この作業の中で、僕が規則としているのは、「証言の客観的な事実性を求めない」というものでした。つまり語っている内容が事実であれそうでないのであれ、真偽を問うことには価値をおかず、証言者達が一体どのような必然性や理由でそのような証言を僕に語ったのかについて知ろうとしています。

こうした、集めた証言に対する立ち位置について、村上春樹氏が「ナラティブ(物語)の集合体」という言葉を使って、同じような指摘をしていることを知りました。

村上氏はこのように語っています。”…僕はあの本(『アンダーグラウンド』)を、「ノンフィクション」だとは考えていません。もちろんフィクションではない。しかしノンフィクションでもありません。僕としてはそれをむしろ「物語(ナラティブ)の集合体として考えています。僕がインタビューした人々は、事件の被害者たちは、みんなそれぞれに語るべき個人の物語(ナラティブ)を持っていました。彼らはたしかにそこで事実を語りました。でもそれは百パーセントの事実ではありません。それらの事実は彼らの経験を通して目にされた光景です。これはひとつのナラティブです。…ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めたかったのはそういうものなのです。…彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もし彼らがそれを事実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。…ナラティブのうちのあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォメーションを総合したものが、その相対が、ひとつの広い意味での真実を形成するからです。”[村上 2010:340-341]
[PR]
by okphex | 2011-02-26 20:35 | 本の言葉
サンデル氏著『これからの「正義」の話をしよう』の第5章にあたる、哲学者カントに関する章を読みました。長かった…。彼の哲学の背骨となる、「正義」に対する哲学と「定言に基づいた命法」について、具体的な例に基づいて議論していたので、ともすれば読み手が迷路に陥ってしまいがちな主題について、納得しつつ読むことができました。

その例について幾つか挙げると、「喜んで人を助ける人の行為は、道徳的なのか?」、「人殺しに対して嘘をつくことは許されるのか?」、「クリントン元米大統領の、『不適切な関係』という弁明は正義に反する行為なのか?」といったものです。カントの主張によれば、これらの問いはいずれも「ノー」ということになるそうです。その理由を解明する際に、この章が表題としている「動機に着目せよ」という言葉が重要な意味を帯びてきます。そしてこれらの議論を手掛かりに、カントの「定言命法」という概念を明らかにしていきます。

本章の議論はなかなか考えさせるものがあります。それは、カントの「定言命法」が、必ずしも僕たちが普段「道徳的」と考えている振る舞いや考え方と、表面的にはそぐわない部分を含んでいるからです。

機会を見て、その理由をここで議論してみたいと思いますが、疑問に思った方は是非とも本書の該当部分を読んでみられることをお薦めします。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

マイケル・サンデル / 早川書房


[PR]
by okphex | 2011-02-23 22:43 | 本の言葉
村上春樹氏はインタビューの中でこのように語っています。
”僕の場合(…)、決心してからいったん書き出すと進行が速いんです。(…)集中して短編小説を書こうとする場合、書く前にポイントを二十くらいつくって用意しておきます。(―ポイントってどんなものですか。)何でもいいんです。なるべく意味のないことがいい。たとえば、そうだな、「サルと将棋を指す」とか「靴が脱げて地下鉄に乗り遅れる」とか「五時のあとに三時が来る」とか(笑)。そうやって脈絡なく頭に思い浮かんだことを二十ほど書き留めておくんです。リストにしておく。それで短編を五本書くとしたら、そこにある二十の項目の中から三つを取り出し、それを組み合わせて一つの話をつくります。そうすると五本分で十五項目を使うわけですね。そして残った五つは、使わなかったものとして捨てるわけ。不思議だけど、こうやると短編小説ってわりにすらすら書けてしまいます。”
[村上 2010: 319-320]

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上 春樹 / 文藝春秋


[PR]
by okphex | 2011-02-17 23:35 | 本の言葉

I cannot live without you.

「人間はどのような時に、自分が”成熟した”と実感するか」という問いは、人類学者のプラースが追求したテーマでした。
この問いに関連する考察を、内田樹氏は”I cannot live without you.”というフレーズを使って説明しています。

”ほとんどの人は逆に考えていると思うけど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。”
”I cannot live without you.-私はこのyouの数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に活きる人間の社会的成熟の指標だと思っている。”
”「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きていて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。”
[内田 2011: 272-274]

このように言われて考えて見れば、生活や仕事で苦しい思いをすることの大部分は、「人に任せず自分の責任で全部しなければ」という義務感そのものに縛られたことから生じていたように思えます。少し肩の力が抜ける言葉ですね。

疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)

内田 樹 / 角川書店


[PR]
by okphex | 2011-02-14 16:16 | 本の言葉

物語の不可解さ。

村上春樹氏は、自作の物語の構造が持つ不可解さについてこのように話していました。

”僕がこんなことを言うのはなんだけど、何度読み返したところで、わからないところ、説明のつかないところって必ず残ると思うんです。物語というのはもともとがそういうもの、というか、僕の考える物語というのはそういうものだから。だって何もかもが筋が通って、説明がつくのなら、そのなのわざわざ物語にする必要なんてないんです。ステートメントとして書いておけばいい。物語というのは、物語というかたちをとってしか語ることができないものを語るための、代替のきかないヴィークルなんです。極端な言い方をすれば、ブラックボックスのパラフレーズにすぎないんです。”
[村上 2010: 312]

ここで村上氏が言及している「物語」は、小説や映画と言った、明確な構造と媒体が確立した形態をとらない、例えば個々人が語る思い出話なども当てはまるのではないかなー、と思いました。思い出話は、その人が経験した過去を忠実に再現していると言うよりも、再構成や再解釈が伴っていることがほとんどだし、話の筋が通っていない場合もしばしば、というか結構ありますからねー。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上 春樹 / 文藝春秋


[PR]
by okphex | 2011-02-11 10:17 | 本の言葉

代理出産と正義。

サンデル氏は、「正義」についての議論の中で、リバタリアニズム(法が保証している限りの個人の行動の自由と権利は、他者の干渉を一切受けるべきではない、という考え方)と功利主義的立場(最大多数の最大幸福を達成するために、個々人の自由と権利はある程度の規制を受けても仕方がない、とする立場)という、彼の議論ではおなじみとなった二つの対立する観点から、代理出産契約の問題について議論しています。

事例[サンデル 2010: 120-126]によると、「ベビーM」という赤ちゃんは、代理出産を依頼した夫と、代理母となることを引き受けた女性との間で人工授精を通じて生まれました。
しかし出産後、代理母は「ベビーM」の引き渡しを拒否。彼女の母親としての権利と「ベビーM」の親権を巡って、裁判となりました。
最高裁判所までもつれ込んだこの裁判は、結果的に代理出産契約を無効とする判決となりました。

この判決を是とするか非とするか、いずれにしても代理出産を巡る裁判は一体どのような意味を持っているのかが議論の焦点となっていますが、この問題を「どちらが正しいのか?」という議論から始めて、「正義とは何か?」というより大きな問いに結び付けていこうとするのがサンデル氏の目的かもしれません。ただ、僕はこうした「正義」の議論のあり方にやや違和感を感じました。

これは恐らく、英語の「justice」と日本語の「正義」という二つの概念が持つ幅の違いかもしれません。

「justice」は、上記の議論から判断する限り、「二つの対立する立場のうち、どちらが真に正しいのか?」をはっきりさせるという意味合いが多分に含まれているように思えます。
一方日本語の「正義」には、このようなはっきりした意味合いを見出す事ができません。時代劇で「義によって助太刀致す」というセリフが頻繁に登場するように、「義」という言葉には、義理や人情(そして、やせ我慢)といった要素も含んでいます。つまり、日本語「正義」が意味するものは、「客観的に事の善し悪しを判定できるような明確な基準」ではなく、「ある人の判断や行動は、その時の状況や人間関係に照らし合わせて適切だったか(賞賛すべきものだったか)」ではないかと考えることができます。

だから「正義」には、客観的に判断可能な絶対的な基準というものはなく、むしろその適用範囲は状況に応じて異なることになります。赤穂浪士の討ち入りが、江戸幕府の立場から見ると死罪に値するような反逆的行為であったにも関わらず、江戸の庶民が彼らに拍手喝采を送ったのは、彼らの行為が、亡き主君に対する「正義(忠義義)」の実践であったと映ったからです。

このような「正義」の概念と物語を価値観として持っている日本人に、サンデル氏の「正義」の議論がどの程度有効なのか、なかなか興味深いところです。以前サンデル氏が、日本の学生達を相手に「正義」についての講義を行ったところ、議論があまり盛り上がらなかった、ということを聞きました。これは個人的には、学生側に、論理的に議論を積み上げていく能力があまり備わっていなかったというよりも、そもそも「正義」の概念について、サンデル氏側と学生側との間にボタンの掛け違いがあって、それが最後まで解消されなかったからではないか、と考えています。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

マイケル・サンデル / 早川書房


[PR]
by okphex | 2011-02-10 21:31 | 本の言葉

仕事への姿勢。

村上春樹氏は、彼自身が最も好きな作家であると認める、レイモンド・カーヴァー氏の仕事の姿勢を以下のように語っています。作家という限定的な範囲に留まらず、所謂プロフェッショナルとして働く人すべてに当てはまる言葉だと思いました。

”レイモンド・カーヴァーにとっては、死に物狂いで自分の身を削ってものを書くというのは最低限のモラルだったんです。だからそういうモラルを実行していない人を目にするのは、彼には耐えがたいことだった。優しくて温かくて親切な人なんだけど、文章を書くことに手を抜いている人間に対して、あるいは手を抜いているとしか思えない人間に対して、自分はどうしても友だちとしての親愛の情を持つことができなかったと、あるエッセイの中で告白しています。そういう場合、「あいつはいいやつなんだけど」というんじゃなくて、「いいやつ」という視点すらすっぱりと消え失せてしまうわけです。そういう人が近くにいると、やっぱり身が引き締まりますよね。”
[村上 2010: 284]

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

村上 春樹 / 文藝春秋


[PR]
by okphex | 2011-02-09 22:21 | 本の言葉