人気ブログランキング | 話題のタグを見る

写真関連のニュースと写真ギャラリー,そして文化人類学に関する記事を掲載しています。


by okphex
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

「絡み合い-キアスム」

引き続き、メルロ=ポンティ コレクションから。
「身体について」の部の後半となる、「絡み合い-キアスム」の章で、世界の成り立ちと身体との関係について焦点が当てられます。
ここでも「肉」が、重要な鍵として度々登場します。彼は「肉」と言う概念を、原素(エレメント)として捉えるべきであり、具体的な質量や実体を伴った存在として捉える事は適切ではない、と指摘します[p.133]。

もう一つこの章で重要となる考え方は、身体を二つの側面から捉えるということです。つまり一方には「見られるもの」「感じられるもの」としての身体があり、他方には「見るもの」「感じるもの」としての身体があるということです。彼は両者を、前者は第三者が対象として捉える身体なので「客観的身体」、後者を、身体そのものが主体となることから「主観的身体」と呼びます[p.127]。

この二つの身体の側面が、不可分の関係にあることは、現実の経験としてすぐに理解できます。片方の手がもう一方の手に触れた時、触れた側の手は「感じる身体」であり、同時に触れられた側の手は「感じられる身体」となり、さらに感覚を相互に実感できることから、両者の関係は逆転して捉える事も可能です。さらにこの二つの側面を、当事者の人は、我が身の感覚として実感できるのです。

では、この二つの側面は同時に感覚として出現するものなのでしょうか。彼はそこには必ず「ずれ」が見出せるはずだ、と考えます。この「ずれ」はほとんど無きに等しいが、非在ではなく、そのために二つの身体はまるで一つの存在のように密着している、としています[p.149-150]。

残念ながら、筆者の理解では、こうした身体の成り立ちが世界全体の存在とどのように結びついていくのかが十分に理解できませんでした。ただ、我々にとって身体は事物の尺度なのであり、何らかの観念を想起する際に、我々は「肉」の奥行きがその理解に介入することを認める必要がある、とする指摘が、身体と世界を結び付ける手がかりとなるかも知れません[p.156]。世界を理解する際に、私たちは身体の外側から眺めることはできず、常に内側に留まる。そのため身体と世界は「肉」の厚みを挟みつつ繋がっている、とする理解では的外れでしょうか?今後の考察の課題です…。
by okphex | 2008-11-03 23:45 | 書籍