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by okphex
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「問い掛けと直観」

先日ご紹介した、
メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)の内容から。

今まで西洋哲学などほとんど縁がなかったので、用語や言い回しの理解に難渋していますが、少しずつ読み進めています。
今回読んだのは、「身体について」の部の、「問い掛けと直観」の章からです。
メルロ=ポンティは身体の両義性について深く洞察した哲学者と言うことで、「身体」を表題としたこの部では、彼の思想の核心部分の一端に触れることができるのではないか、と期待していました。

ところがこの章では、「身体」に関する議論よりも、「本質」とは何か、「哲学的な問い」とは何か、といった問題を主に扱っていました。
ただ、「身体」を想起させる彼ならではの用語として、「肉」という言葉が随所に登場します。これは精神的なもの、形而上学的な理念と対置される、物質や具体的な何かを指し示しているのではなく、我々が見ることができ、触れる事ができる総てのものを覆う「厚み」を表現したものだとしています[p.103]。

この概念に関連していると思われる面白い例を、彼は後の章で示しています。それはものを触ろうとする左手を、右手で触った時の経験です[p.122]。左手は何か別の物に触れようと意図し、その感触を予感、あるいは期待しているときに、ふいに右手が左手に触れた時に、「触ろうとする感覚」と、「触れられた感覚」が一人の人の中に生じるでしょう。それでは果たしてこの感覚は、同時に生じるものなのでしょうか?それとも何らかの差があるのでしょうか?こうした経験の差を、「肉」という厚みとして捉えているのではないか、と思います。

そしてこうした疑問を受けて、「ではその背後にあるものは果たして何なのか?」という新たな問いが生じるかも知れません。言い換えると、「手で触れる事ができる事物の背後に隠れている本質は存在するのか?」という問いとも言えます。哲学に疎い僕などは、こうした議論が「哲学的な議論」の典型だと思っていました。しかし彼によると、一見「本質」の探求に向かうように見えるこの問い掛けは、何らかの具体的な「本質」が存在することを暗黙の了解としている点で問題があると指摘します。むしろ、「私は何を知っているか」という問い掛けこそ、最終的に「"ある"というのはどういう事なのか」という問い掛けに繋がる、重要な哲学的問いではないか、と説きます[p.112-113]。そしてその問いは、現実世界とは全く遊離した問題としてではなく、むしろ非常に日常的な疑問、例えば「私は今どこにいて、今何時なのか」という形としても現れるとしています[p.99]。この問いは、日常的な経験と事実を反映しつつ、世界そのものへと向かう尽きざる問いでもあるというのです。

「私は何を知っているか」を問い掛けの中心に据えること、この指摘は僕にとっても非常に心に響きました。前述のように、高度に形而上学的な議論に終始することが哲学の議論の有り様だと思っていた僕にとって、経験や時間、そして本質とが互いに交差する形で問い掛けを展開できると理解したことで、新たな思考の地平が拓けたように思います。とはいえ、まだまだ読み始めたばかりで、誤読や未消化な部分がほとんどを占めていることは十分知っています。しかし初学者が自らの未熟を隠匿していては、何らの歩みも望めないと自ら言い聞かせ、今後も逐次、自らの思索を「反省」していこうと思っています。
by okphex | 2008-11-02 23:49 | 書籍