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by okphex
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「自己責任論」と「リスク社会」。

サンデル教授の議論にやや関連して、「リスク化」についての、内田樹先生の議論を紹介してみたいと思います。

現代社会を表現する用語に、「リスク社会」というものがあります。これは「社会がリスク化している状況」と定義することができます。それでは、「リスク化」とはどのような状態をさしているのでしょうか?内田先生は自著『下流志向』でこのように述べています。

"「リスク化」とは、社会の不確実性が増し、個人にとっては将来の生活予測可能性が低くなるということです。"[内田 2009:95]具体的には、大学を出たからといって就職が保証されなかったり、企業への就職が生活の安泰に結びつかない、といったように、努力と成果の安定的な関係が崩れていることが、「リスク化社会」の特徴であるといいます。

社会に不確実性が存在することは当然ですし、成果と結果との間には、ある程度の幅があることもまた然りでしょう。
内田先生が問題視するのは、この「リスク化」と「自己責任論」とが結びついた時に、すべてのリスクの結果を個人が自らの責任として引き受けざるを得なくなる、という状況の持つ危険性です。

リスクを負う責任が、社会のあらゆる階層に均等に振り分けられているとすれば、「自らの行動の責任は、全て自らが引き受けるべき」とする「自己責任論」にも一定の説得力を認めることができます。

しかし、現実の社会は、「リスクの少ない社会階層」と、「リスクの多い社会階層」の二極化が生じているといいます。つまり、一方には、"「努力は報われない」ということを、(経済格差や教育機会の少なさから) 骨身にしみて味わい、ますます努力することの動機づけを失う"人々の階層があり、他方には、"(恵まれた経済状況や機会を与えてくれる人間関係により)「努力は報われる」ということを確認し、それによってますます努力することの動機づけを強化"する人々の階層が存在する、ということです[同 :100]。

こうした現実の状況に鑑みれば、「全ての行動の成否の責任は個人が負わねばならない」とする「自己責任論」は、論理的にかなり無理があることが分かります。

「自己責任論」が想定するような、全ての行動の責任を取ることができる個人とは、後者の階層に所属する人々、つまり、社会的にかなり恵まれた立場にいる人々だけです。しかし、こうした人々が相対的に社会で高い地位を保つことができるのは、実はその人物が、社会の相互扶助・相互支援ネットワークに属していることが前提となります。ということは、「リスク社会」においては論理的には"自己決定・自己責任を貫けるような強者は存在しない"ということになるというのです。そしているのは、"自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者だけ"だと指摘します[同:127]。

こうした「強者」の例として内田先生が挙げているのが、ロスチャイルド財閥です。ロスチャイルド一族は、銀行業によって蓄積した莫大な富と、 絶大な政治力を駆使して繁栄を続けた、典型的「強者」のように見えます。ところが実は、ロスチャイルドの親族達は、それぞれ全く異なった場所で銀行を運営するなどして、どのような突発的事態が生じてどの銀行が危機に陥いっても、一族としては存続可能なように巧みにリスクを分散してきたというのです[同:120]。実際、多くのロスチャイルド系の銀行は経営破綻や戦争による営業停止などの「失敗」を経験していますが、こうした影響を回避できた人物が、一族を維持させてきました。

このように、社会におけるいわゆる「強者」が、"「決定の成否にかかわらずその結果責任をシェアできる相互扶助的集団」"[同:121]を構築してきたにもかかわらず、多くの自己責任論においては、「個人がリスクを引き受ける、あるいは回避する全面的な責任を負う」という原理的に不可能な理路を前提としており、こうした相互扶助的集団の重要性を指摘しているものはほとんど見あたらないようです。

「自己責任論」に基づいた「リスク化社会の対処方法」の普及は、結果として膨大な数の構造的弱者を作り出すだけではないか、というのが、内田先生の見解です。[同:127]

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

内田 樹 / 講談社


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by okphex | 2011-01-16 14:24 | 日々の文章