「牧人」的な権力。[「全体的なものと個的なもの」(M・フーコー)]
2010年 07月 22日
現在、読書会のテキストとして、フランスの哲学者、フーコーの講義録の中から、「全体的なものと個的なもの」を読んでいます。
国家による統治を正当化する論理がどのように練り上げられてきたのかについて、フーコーは強い関心を持ち続けてきました。特に「生権力」、つまり国民を処罰や統制によって管理するのではなく、国家の構成員として「正しく」生きる方向に作動する権力のあり方を提示したことは、彼の大きな仕事の一つであると言えます。
このテキストは、近代国家が「生権力」に向かう、その基盤を探ろうとする試みのようです(いまいち読解に自信がない…)。
ここで採り上げられている中心的な概念の一つは、「牧人」という考え方です。つまり、キリスト教の考え方では、民衆を統治する立場の者は、集団全体をまとめ上げるだけでなく、まるで羊飼いや牧童が一頭一頭の牛や羊の世話をするように、目を配らなければならないとしています。こうした「牧人的統制」が、近代国家の、”ゆりかごから墓場まで”(少なくとも理念的には)国民の生活に配慮するという国家理念に受け継がれている、と指摘している(と思います)。
今回のテキストは邦文で60ページほどとコンパクトですが、これまで大学内でフーコーの読書会を継続して行ってきたこともあり、どのような議論に発展するか楽しみです。
僕自身はまだまだ勉強が足りないので、議論に取り残されないように、さらに読み返さなければならないのですが…。
国家による統治を正当化する論理がどのように練り上げられてきたのかについて、フーコーは強い関心を持ち続けてきました。特に「生権力」、つまり国民を処罰や統制によって管理するのではなく、国家の構成員として「正しく」生きる方向に作動する権力のあり方を提示したことは、彼の大きな仕事の一つであると言えます。
このテキストは、近代国家が「生権力」に向かう、その基盤を探ろうとする試みのようです(いまいち読解に自信がない…)。
ここで採り上げられている中心的な概念の一つは、「牧人」という考え方です。つまり、キリスト教の考え方では、民衆を統治する立場の者は、集団全体をまとめ上げるだけでなく、まるで羊飼いや牧童が一頭一頭の牛や羊の世話をするように、目を配らなければならないとしています。こうした「牧人的統制」が、近代国家の、”ゆりかごから墓場まで”(少なくとも理念的には)国民の生活に配慮するという国家理念に受け継がれている、と指摘している(と思います)。
今回のテキストは邦文で60ページほどとコンパクトですが、これまで大学内でフーコーの読書会を継続して行ってきたこともあり、どのような議論に発展するか楽しみです。
僕自身はまだまだ勉強が足りないので、議論に取り残されないように、さらに読み返さなければならないのですが…。
by okphex
| 2010-07-22 23:07
| 書籍